賢者の知恵
2015年11月09日(月) 光岡英稔,尹雄大

江戸時代は誰もが、60キロの米俵をヒョイと持ち運んでいた!
~なぜ私たちは「身体」を見失ったのか?

独占・最強インタビュー(3)

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光岡英稔(みつおか ひでとし) 1972年岡山県生まれ。日本韓氏意拳学会(http://hsyq-j.blogspot.jp/)代表、および国際武学研究会(http://bugakutokyo.blogspot.jp/)代表。多くの武道・武術を学び11年間ハワイで武術指導。 2003年2月、意拳の創始者、王向斎の高弟であった韓星橋先師と、その四男である韓競辰老師に出会い、日本人として初の入室弟子となる。 現在、日本における韓氏意拳に関わる指導・会運営の一切を任されている。〔撮影〕講談社写真部

武術家・光岡英稔の最強インタビューシリーズ
(1)教育すると、人間は「弱く」なる! はこちら
(2)なんだって? 現代人には「足腰」がない!? はこちら 

私たちが持て余しているエネルギー

−−古(いにしえ)の身体観と今の身体観のもっとも大きな違いはなんでしょうか?

いちばんの違いは生活観でしょう。かつては体は生活の中で養われていくので、わざわざ鍛えるまでもありませんでした。

たとえば米俵一俵は60キロの重さがあります。いまの人にとっては持ち上げるのに一苦労、一日中あっちからこっちへと運ぶとなるとさらにたいへんです。けれども江戸末期に書かれた文書にはこう記されています。

「一俵の重さがいまのように決められたのは、成人した大人なら男女問わず誰でも持ち運べる重さだからだ」と。

米俵5俵300キロ(!)を担ぐ女性。現代人にこういう体の使い方はできなくなっている(山形・山居倉庫資料館)

−−60キロを、誰でも手軽に! 現代人が60キロを苦もなく持ち上げるためには、それなりの鍛錬が必要です。ひょっとしたら現代人がウエイトトレーニングをしたがるのは、本来もっているポテンシャルを確認したいという思いがあるのかもしれませんね。

「本当ならこれだけのエネルギーをもっているから発散したい」という本能的な衝動があるでしょう。いまは環境が整えられているため、エネルギーを発散させる場所が仕事作業や労働の他に必要になっています。だからわざわざジムにいったり、ランニングしたりとエネルギーを昇華させようとする。

−−頭脳労働が増え、体を用いなくても生きられる社会になった。それが身体観に大きな影響を与えている。

便利で快適な生活になったおかげで、労働と労力が分断されたと言えます。労働に「労力」を必要としないようになっているため、労力の行き場がない。この力を持て余しているのが私たち近代から現代にかけての現状でしょう。

60キロの米俵を軽々担いでいるように見える。秋田県仙南村、昭和30年ごろ(出典:http://www.pref.akita.jp/fpd/towns/sennan/tougenkyou.htm

その反面、いまの私たちは60キロの米を運ぶだけの集注観を体から失っています。ようするに、そのような身体観、体の捉え方が無自覚に失われて来ているわけです。

−−ネット上では冷笑や嘲笑、いがみ合いに相当なエネルギーが注がれています。これも持て余した力のひとつの発散に思えます。

機械に頼らず農作業を一日でもしたらわかると思います。おそらく疲れ果てて寝るだけでしょう。食べて寝ることに傾注した暮らしでわかるのは、人の諍いや争いは人間社会の中で争えるだけのゆとりや余裕があって生じるということです。

手をかけた米や野菜ができる。それを食べて成立する暮らしがあって日々生きているのなら、すべての労力をそこに費やしたほうがいい。そのほうが快適に暮らせる。そんなふうに意識して思うまでもなく行えるのは、それが暮らしの成り立ちに沿った自明の理だからでしょう。

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