ブルーバックス
灯台の光はなぜ遠くまで届くのか
〜時代を変えたフレネルレンズの軌跡

テレサ・レヴィット著『灯台の光はなぜ遠くまで届くのか』
〔photo〕iStock

"光の魔術師"の生涯と灯台の秘密

1800年代、海難事故が相次いでいたフランスで、暗い海を明るく照らす灯台が求められていた。小さな光を効率よく、より遠くまで届けるにはどうすればいいか――その難題に挑んだのがフレネルだった。多くの命を救い、人々を魅了し、世界中に広まったフレネルレンズとは何か。いわゆるオタクで内気だった青年が信念を貫いて築きあげた19世紀の偉大な業績に迫る。

はじめに

 私が最初にフレネルレンズを見たのは、アラスカ州立博物館でのことでした。

 この博物館には子どもの頃によく通い、高校生時代はアルバイトの受付係として働きました。1階中央の吹き抜け部分には、ハクトウワシの剥製とその巣を置いたエゾマツの大木が植えられ、そのまわりを長いらせんスロープが囲んでいます。この長いスロープを歩いて2階へ行く人は、録音されたハクトウワシの甲高い鳴き声を、繰り返し耳にしながら上るのです。

 スロープの最後の角を曲がると、最初に見えて来るのが巨大なフレネルレンズでした。このきらきら光る一見正体不明の大きな装置は、とても素通りできないほどの存在感がありました。何百個もの磨き上げられたプリズムが整然と、しかも不思議な形に並べられ、この世ならぬ雰囲気を醸しだしているのです。亜寒帯の森林を見慣れた私の目には、ことさら衝撃的に映ったものでした。

 とんがり頭で、一見、レンズというより、まるでアラスカに不時着した飛行船のような本体の形状。常に発散されている干渉縞(かんしょうじま)〈*〉のせいで、シャボン玉を生み出すパレットのようにきらめいている表面。分厚いクリスタル・ガラス、真鍮のフレーム……。

*光の干渉により生ずる縞模様。単色光では明暗の縞ができ、白色光では色のついた縞になる。

 フレネルレンズとは、ヴィクトリア朝独特の細部へのこだわりと空想科学のみごとな結合だと、私は思いました。19世紀が未来と出会い、アメリカミズバショウとセンニンソウと、ハクトウワシの鳴き交わす声が満ちるアラスカの原野に斬新な装置が送り出されたのだと。

 そのとき、私の頭の中でフレネルレンズと、アラスカ新時代の幕開けが結びついたのです。たぶん、博物館のフレネルレンズが、歴史コーナーの入り口に据えられていたせいかもしれません。とはいえ当時でさえ、それが少々幼稚な連想だとは知っていました。博物館での展示場所は、時代考証より建物の構造や人の流れのほうを重視して決められることも、よく承知していました。

 ところが後年、フレネルレンズの歴史を研究しだすと、実際にこのレンズが、アラスカに新時代をもたらしたことを、改めて知ることになるのです。アラスカ湾岸にも、何百年にもわたる漁業や狩猟や交易の歴史があります。けれどもそれは、基本的にアラスカで完結する活動で、地域外の注目を浴びることはほとんどありませんでした。

 アラスカは1868年、ロシアからアメリカによって買収されました。全米の人びとは国務長官ウィリアム・スワードの決断を〝スワードの愚行〟と呼んであざけりました。こんな不毛の荒野を手に入れたところで、アメリカが、拡大する世界貿易の波に乗れるはずもない、というのが彼らの言い分でした。ところが1896年、ユーコン地方のクロンダイクで金鉱が発見されたとたん、事態は一変します。アラスカのゴールドラッシュが始まったのです。アメリカ議会は、それから1ヵ月もしないうちに11基のフレネルレンズの購買を決定し、すべてアラスカ沿岸の灯台に設置すると発表しました。

 ところが、レンズの複雑な構造のため、設置工事は遅延を重ねます。1899年にゴールドラッシュが終わるまで、アラスカ沿岸がフレネルレンズの恩恵に浴することはありませんでした。ただしその後は、フレネルレンズの光を得た大洋航路ではより安全な航海が保証され、船舶の往来がいよいよ頻繁になります。アラスカにも、ついに世界貿易に参加する道が開けたのです。

 フレネルレンズを備えた灯台ができると、その地域はとたんに世界貿易市場と直結することになりました。フレネルレンズのおかげで、アラスカ沿岸各地では、同じことが次々と起きました。