ゼロからわかる「55年体制」
〜自由民主党はこうして生まれた

「戦後レジームの正体」第7回(後編)

前編では、「現憲法維持」の吉田茂、「改憲論者」の鳩山一郎、そして鳩山を上回る「強硬な改憲論者」岸信介の三者三様の憲法観を紹介した。今回は、戦争指導者としてA級戦犯容疑をかけられた岸信介がいかにして政界に復帰し、吉田茂政権を打倒したか。自民党が誕生した経緯を解説しよう。

A級戦犯から再び政治の舞台へ

岸は講和条約が発効した28日に追放解除となった。

そして10月1日に総選挙が行われた。再建連盟は40人以上の候補者を立てたが、岸自身は出馬しなかった。「A級戦犯容疑者」であった岸を選挙民がどう捉えているかを計りかねていたのである。

巣鴨プリズンから釈放されたその足で実弟の佐藤榮作官房長官のもとを訪ねて一服する岸信介 〔photo〕wikipedia

だが再建同盟は、総選挙で惨敗した。

そこで岸は作戦の練り直しを余儀なくされたのだが、それを見て、岸の実弟で自由党幹事長であった佐藤栄作が強引に入党させた。

実は、岸は惨敗後に「戦う民主主義」を標榜する西ドイツの実情を知るために現地へ旅立ったのだが、その間に吉田の「バカヤロー」発言による内閣不信任、そして衆院解散、総選挙となり、佐藤が岸の留守中に自由党への入党と立候補の準備を済ませたのである。

選挙区は岸も佐藤と同じ山口二区で、佐藤は1位、岸は3位(定数5人区)で当選した。

岸は1年生議員ではあるが、大勢のいわば子分を抱えて岸派を形成する大物で「台風の目になる」と注目されていた。

総選挙で、第1党は吉田自由党が199、重光葵の改進党が76、そして鳩山の分派自由党が35となり、革新側は左派社会党が72、右派社会党66と、保革両陣営とも多党乱立状態であった。

岸は、吉田自由党に属しながら、実は反吉田で、占領政治の打破、そして憲法改正のために保守合同を目指していた。

ところが、米ソ冷戦が際立ってきてアメリカは日本に防衛力増強を要求するようになり、分派自民党の限界を感じた鳩山が、防衛力強化のための憲法改正、そのために憲法調査会を設置することを条件に自由党に復党した。そして、佐藤の進言で、岸が新設の憲法調査会の会長となった。

「だが、吉田は憲法改正が簡単に実現するとは思っていない。岸が反吉田で動き出さないように憲法調査会という玩具を与えて適当に遊んでいてもらう魂胆であった。

ところが、岸は憲法改正を通じて政界再編を実現する考えである。一も二もなく飛びついた」(憲法政戦』塩田潮、日本経済新聞出版社)

岸は54年3月12日、憲法調査会の発会式で挨拶した。

「現行憲法は現在とはまったく違った環境の下でつくられたものです。いまや全面的に再検討すべき時期にきている。もし改正の要ありという結論に達したら、具体案を決め、国民大多数の支持を得られるようにしなければならない」(前掲書)

吉田自由党は鳩山たちを復党させて、岸にも玩具を与えて安定するかに思えたのだが、造船疑獄に火がついて、4月20日に、検察は佐藤幹事長に対する逮捕許諾請求決定した。

現職の幹事長が逮捕されれば、吉田内閣は崩壊を免れ得ない。吉田の指示で、犬養健法相が翌21日に指揮権を発動して佐藤逮捕を強引に阻止させた。

だが、この事件で国民の吉田政権への不信感は決定的となり、5月に吉田内閣の支持率は23パーセントとなってしまった(朝日新聞)。

こうした世論に呼応して、いやむしろ先んじて、吉田自由党を含む保守陣営内で「吉田降ろし」の動きが活発となり、指揮権発動の1週間後には「新党結成促進協議会」がつくられた。公然と吉田抜きの保守合同合作がはじまったのだ。

中核となったのは三木武吉、石橋湛山、河野一郎、そして岸信介であった。岸は協議会改め「新党結成準備会」の事務局長となった。巣鴨拘置所から出所して約5年半、追放解除となってわずか2年余で、岸は新党運動のリーダーの一角となったのである。

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