読書人の雑誌『本』
美術の枠を超えた芸術家たち 
教育を受けず、名声も求めない「アール・ブリュットの世界」

〔photo〕iStock

琥珀の完璧な王国

文/小川洋子(作家)

ああ、もしこの創作ノートが自分のものだったら……

人里離れた渓谷の村に生まれたその男は、幼くして孤児となり、幼女強姦未遂事件を起こして精神病院に収容される。死ぬまで過ごすこととなった病室で彼は、2万5000ページにも及ぶ、架空の自伝を創作する。

文章、ドローイング、コラージュ、楽曲で構成される物語の中で、彼は全世界を冒険し、美しい宮殿や珍しい動植物と出会い、災難にも打ち克ち、無尽蔵の財力と権力で巨大創造物を構築した。

男は雑貨屋を営んでいた。第二次世界大戦中、店をドイツ軍に奪われると、弟の家の屋根裏部屋に隠れ住んだ。戦争が終わっても決してそこから出ようとせず、差し入れを持って来てくれる人たちとの接触も拒んだ。風邪をこじらせて彼が死んだあと、屋根裏から非常に小さなサイズのドローイング、約五百点が発見される。

題材はすべて人の顔で、大小さまざまな顔が連なり合い、含まれ合いしながら際限なく細密に紙面を埋め尽くしている。時折、胴体へとつながろうとする線が現れ、解放の予感がよぎるものの、すぐさま顔に引き戻される。

放浪の子ども時代を送った男は読み書きができなかった。やがて移動露天商となり、独学で絵を描きはじめる。その高度な線描画のテーマは、守銭奴、鳥、蛙、魔法の城などで、屋台に飾っては、気に入ってくれた客に二束三文で分けてあげていた。

やがて画廊に才能を認められるようになったが、いわゆる専門家との付き合いを毛嫌いした彼は、自分の展覧会が開かれている画廊の前で露店を開き、通りがかりの人にただ同然で絵を売った。

彼らは実在したアール・ブリュットの芸術家たちである。作品集『アウトサイダー・アート』(求龍堂)に掲載されている作家の中から三人を選び、略歴を参考にしてまとめてみた。もっとも彼ら自身は、芸術家などと呼ばれることを嫌がったかもしれないが。

アウトサイダー・アート』(求龍堂)より

1945年、フランスの画家ジャン・デュビュッフェによって命名されたアール・ブリュット(生の芸術)は、専門の教育を受けていない人たちが、美術の世界の枠を超えたところで生み出す芸術である、と説明文にはそうあるのだが、最初にこの作品集を開いた時、私は誰か未知の小説家の創作ノートを盗み見したような錯覚に陥った。しかも、神様に祝福された小説家だ。

この絵一枚、あるいはこの略歴数行に足を踏み入れ、探索してゆけば、どんな小説が書けるのだろう。ああ、もしこの創作ノートが自分のものだったら……と夢想した。

それほどにアール・ブリュットの世界は、魅惑的な物語にあふれている。作品も作者の人生も、その根底に人間の不思議を潜ませ、暗闇を飲み込み、はっと息を飲んで立ちすくむような奥深さを湛えている。

彼らは大声で自らの存在を主張しない。有名になりたいなどと願ったりしない。現実からの要求に応えるのではなく、自分にとっての宇宙を作り出してしまう。革新的であろうと、現実世界でもがく芸術家たちをよそに、彼らは他の誰も想像できない言語で思考し、メロディーを奏で、色と形を操っている。組成の異なる空気を吸っている。