「少年皇族」は、激動の戦後をどう生き抜いたか
~皇籍離脱で民間人となった、ある男の半生

インタビュー「書いたのは私です」久邇邦昭
アメリカの爆撃を受け大和は沈没した〔PHOTO〕gettyimages

―皇族・久邇宮家の長男として生まれ、戦後は皇籍離脱で民間人となり、海運会社に勤め世界各国を飛び回り活躍。その後、伊勢の神宮大宮司を務められた久邇邦昭さんの半生を描いた労作です。

執筆を勧められた当初は固辞していたのですが、そのうちに「少しは書き残しておきたいこともあるな」と思い直しペンを取り始めました。

戦中・戦後の皇族のことや、海軍兵学校の井上成美校長や第二艦隊司令長官の伊藤整一中将のこと、皇族とサラリーマンを経験したからこそ辿り着いた人生観などを記しました。

―久邇宮家と言えば、久邇さんの祖父君・邦彦王は香淳皇后のお父上。つまり、昭和天皇から見て久邇さんは義理の甥となる間柄です。

祖父は、私が生まれる直前に亡くなったので、人柄については人から聞いただけしか知りません。元帥陸軍大将だった祖父は、大変な読書家で、ものの考え方も常に冷静で中庸。太平洋戦争開戦時に存命だったら陸軍の暴走を止められたのではないかと、何人もの人から聞かされました。

昭和天皇とは、戦後、私たちが皇籍離脱をした後も、折に触れてお目にかかる機会がありました。印象深いのは、皇籍離脱の際に開いていただいたお別れの会です。天皇は皇籍を離れる皇族たちに「元気に過ごしてください。これからも今まで通りにつきあいましょう」と声をかけられましたが、その表情はどこか寂しげでした。皇族といえば親戚ですから、その人たちが違う立場になることに不安があったのかも知れません。

―昭和20年、学習院の中等科から江田島の海軍兵学校に入学される直前、戦艦大和を見学される機会があったそうですね。

ええ。15歳のときです。皇族は正式に入学する前に準備教育という期間が設けられていて、ちょうどそれが終わる頃でした。どういう経緯だったのか覚えていませんが、私一人、徳山で大和に乗り込み艦内を見学させてもらったのです。伊藤整一中将にお会いしたのはこの時です。幹部の方々とありたけの食材を使ってのフランス料理をご馳走になりました。

それからわずか1週間ほど後のことです。大和が沖縄に向けて特攻出撃し、敵機の爆撃によって沈没してしまうのは。伊藤中将は、大和の沈没を悟った途端、作戦中止命令を出し、その後、自身は長官室に入って中から施錠し大和と運命を共にされた。作戦中止命令のお陰で助かった乗組員を含め、周囲の僚艦の三千余名も救いました。その決断は素晴らしいものだったと思います。

私はその後、江田島から広島原爆のキノコ雲を目の当たりにし、玉音放送を聞きました。ラジオの音は悪く、ただ、日本が負けたんだなということが、周りの大人たちを見て分かりました。