現代新書
知らなかったではすまない「暴力」新時代〜あなたはどう立ち向かう?
【前書き公開】久田将義 『生身の暴力論』
〔photo〕gettyimages

「人を殺してみたかった」という理由での殺人事件が近年目立つ。さらに、ネット上には「殺す」「死ね」といった言葉が溢れている。そんな「暴力新時代」に、私たちはどう対峙すればよいのか?

『トラブルなう』や『関東連合』などで話題の著者が、裏社会や芸能スキャンダルを扱うアウトロー雑誌での様々な取材経験をもとに、我々のすぐそばにある暴力、裏社会のリアルについて描いた新刊『生身の暴力論』。そのまえがきを特別公開!


 世の中、暴力に満ちている──。

 最近、新聞、テレビ、雑誌、ネットを見て、そんな想いに駆られる時がある。読者の皆さんは、暴力を振るわれた経験があるだろうか。あるいは振るった事があるだろうか。ない人が多数だと思うし、当然振るうべきではない。それが健全な社会生活の送り方だ。

 できれば一生、暴力とは無縁の世界で生活を送るのが理想である。ただし、ニュースで毎日のように暴力沙汰が報道されているのを見れば分かるが、残念ながら暴力はこの世の中に在り続けている。それも時には、僕らの近くに存在したりする。

 ここで、僕なりに、暴力を定義してみよう。

 まず、暴力とは弱者へ向かうものを本書では指す。

 反対に、自分より立場が上の者や、肉体的に強い者へ向かうのは、暴力ではない。反抗であり反骨だ。弱者へ向かう暴力は「いじめ」と同義である。そして、暴力の本質とは「ダサい」にある(「ダサい」の論考は第二章で詳しく述べる)。

 さらに、暴力には大きく分けて二つある。

 肉体的にダメージを与えるやり方。言ってしまえば、殴り合いの喧嘩などである。

 もう一つは、精神的にダメージを与えるやり方。罵倒・中傷など行き過ぎた言論であるところの言葉や文字の暴力はこのパターンだ。

 言論の自由という言葉がある。近代国家において、まず第一に守られなければならない原則だ。しかしその言論の自由に甘えた、暴力的な言葉がネットを中心に増え過ぎてはいないか。言論の自由とは、肉体的暴力がない点を前提にした約束事だ。

 ヘイトスピーチに代表される言葉の暴力は、「言論の自由」に甘え、寄りかかっている。言論の自由は「言論には言論を」という、人の良識・善意を担保としたものとも言える。しかし、その担保をよい事に、行き過ぎた言葉・文字の暴力が存在する。言論の自由をナメているとも言える。

「もしかしたら『言論には言論を』の延長に暴力が存在するかもしれない」という想像力の欠如がそこに見える。そして、その暴力が体験した事のない恐怖を覚えるような圧倒的なものだとしたら……。