【第5回】靖国神社「A級戦犯合祀」をめぐる暗闘
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【第4回】はこちらをご覧ください。

合祀はなぜ強行されたか

筑波藤麿宮司に代わって第六代の靖国神社宮司に就任したのは、元海軍少佐で、戦後は陸上自衛隊に入り、一等陸佐として退官した後は、福井市立郷土歴史博物館長をつとめていた松平永芳であった。

松平は、幕末の福井藩主松平春獄の孫で、最後の宮内大臣を務めた松平慶民の長男にあたる。彼は少年時代の一年間、平泉澄の邸にあづけられ、それ以来、平泉を師として仰ぐようになった。

平泉は、いわゆる戦後体制、つまり日本の昭和の戦争が侵略戦争だったとする「東京裁判史観」の打破を訴えた人物で、実は筑波前宮司も平泉と浅からぬ関係にあったのだが、筑波はそれゆえに、戦前の体制を否定していて、松平とは対極にあった。

松平は、宮司退任直後の2002年、A級戦犯の合祀を決断した経緯を、次のように述べている。

「私は就任前から『すべて日本が悪い』という『東京裁判史観』を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで就任早々書類や総代会議事録を調べますと、その数年前に、総代さんのほうから『最終的にA級はどうするんだ』という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期は宮司預かりとなっていたんですね」

そこで、前章の最後で記したように、「9月の少し前でしたか、『まだ間に合うか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思い切って14柱をおいれした」ということになったのだ。

A級戦犯合祀について、松平はいわば確信犯だったわけだ。

当時の侍従次長で、1985年から88年まで侍従長を勤めた徳川義寛の回想録を引用しよう。

「靖国神社の合祀者名簿は、いつもは10月に神社が出して来たものを陛下のお手元に上げることになっていたんですが、昭和53(1978)年は遅れて11月に出して来た。『A級戦犯の14人を合祀した』という。

私は『一般にもわかって問題になるのではないか』と文句をいったが……私は東條さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。永野修身さんも死刑になっていないけれど、まあ永野さんは軍人だから。

でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた……国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ」

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