「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男
〜カリスマ・プロデューサーの破天荒な一生

【特別公開】牧村康正+山田哲久『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男』
牧村康正,山田哲久

昭和16(1941)年、弘文は東京府豊島師範学校(後の東京第二師範学校)附属小学校に入学。戦時中は練馬への移転、秩父への疎開を体験し、10歳で終戦を迎えた。ちなみに東京第二師範附属小学校、中学校の同窓名簿には、弘文とならんで脚本家・倉本聰、作家・柴田翔の名前がある。また、新聞社、大企業に勤める同窓生も多く、当時としては教育水準が比較的高い学校だったと推察できる。

小学校時代の弘文を知る数少ない証人に沢村景子(仮名)がいる。沢村家と西崎家は家が近く、母親同士が親しかった。景子は弘文より2歳ほど年下である。

ある日、景子は母親から思いがけないことを聞いた。

「弘文君が、あなたにガールフレンドになってほしいと言ってるそうよ。弘文君のお母さんからそう聞いたの」

戦後間もなくの頃であるから、やはり早熟な少年ということができるだろう。景子はとまどいながらも弘文の申し出を受け入れ、数回のデートは母親が同伴し、双方の家の一室で重ねられた。

景子が今でも印象深く覚えている弘文の言葉が二つある。その一つは、「将来有名になるから、その時になったら会ってほしい」という言葉だった。景子はもちろん嬉しかったし、 それ以上に「弘文君はとても大人だ、と感じてどきどきした」という。

およそ30年を経て、弘文は景子との約束を果たした。劇場版「宇宙戦艦ヤマト」の成功を知って景子が「やっぱり弘文君は凄い」と感心した数年後、テレビ局から対面番組への出演を依頼され、二人は再会した。「桂小金治のそれは秘密です」(日本テレビ系)の初恋対面コーナーだった。

景子が覚えている二つめの言葉は、再会の理由として弘文が口にした「子供の頃の約束だから」という言葉である。キザといえばキザには違いないが、景子から見れば、成長した弘文青年はてらいなくそうした言葉を口にできる魅力的な大人になっていた。

西崎家は裕福であっただけでなく、文化的な意識も高かった。弘文は幼少期からNHK交響楽団の定期演奏会に足を運んでいる。この時代、オーケストラの生演奏にふれることができた子供は、一種の特権階級に属していたといっていい。また、自宅で自由にレコードを聞ける環境も整っていたという。弘文はとくに音楽面で芸術的な感性を磨く機会に恵まれていた。

ただし、弘文の少年期は明るい思い出ばかりが詰まったものではない。景子の他、数人の小学校同窓生に弘文の思い出をたずねると、西崎緑の甥であるという記憶以外にはさしたる印象を残していない。つまり、快活で派手やかな少年とはいえなかったのである。