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大物芸能プロデューサーが逮捕!
「う~ん、マンダム」「愛のメモリー」「傷だらけのローラ」を生み出した男の転落人生

逮捕される直前のロビー和田氏 

これぞ芸能界!の華麗なる遍歴

和田アキ子の『笑って許して』(1970年)、西城秀樹の『傷だらけのローラ』(74年)、松崎しげるの『愛のメモリー』(77年)……。こうした70年代の大ヒット曲を制作したのが“伝説のプロデューサー”と呼ばれるロビー和田こと和田良知氏(70)だ。

芸能界ではバイオリニストの葉加瀬太郎を見出したことでも知られる存在だが、そのロビー氏が今年3月18日、一昨年まで取締役だった芸能プロダクション「SL-Company」から特別背任の罪で刑事告訴され、今月9日に会社法違反で逮捕されたのだ。

まさに「天国から地獄」へ。往年の敏腕プロデューサーに何があったのか?

まずはロビー氏の華麗なる遍歴を振り返ろう。

ロビー氏は終戦直前の45年8月12日、インドネシアのスラバヤ大学助教授を務める歯科医の父(日本人)と看護師の母(オーストリア人)の一粒種としてインドネシアで生まれた。

戦後のどさくさの中で父親と生き別れて、母親と一緒にシンガポール、オランダと移り住んだあと、48年に日本に定住。こうした出自で子供の頃から英語など数か国語に堪能だったことが、ロビー氏の将来を大きく左右することになる。

高校時代からフォーク歌手として活動していたロビー氏は、日本のフォーク歌手の草分け的存在であるマイク眞木らを世に送り出した「道徳再武装運動」(MRA、国際的な文化交流を名目とする反共的運動)の中で、眞木の後継者の地位を獲得。

66年にはMRAのフォークグループを糾合して5百人もの大グループ「レッツ・ゴー・66」を創設する。そして同年11月に日本武道館で開いたコンサートでは、5ヵ月前のザ・ビートルズと同様に、集まった1万人の若者を熱狂させ、ギョーカイ人の度肝を抜いた。

さらにはアジア諸国やアメリカに演奏ツアーに出掛けるなど、語学に堪能だったロビー氏の行動力は60年代の日本人の常識を遥かに超えていた。

ロビー氏のフォークグループ「ニュー・フォークス」のレコードジャケットに解説文を寄せた音楽評論家は「ロビー和田なら必ず大成するに違いない。それだけのものを持っている青年である」とベタ褒めした。

しかし「プレイするよりも作る側に回った方が面白い」と考えていたロビー氏は67年、「ビクター音楽産業」(現ビクターエンタテインメント)に契約ディレクターとして入社。

和田アキ子のデビュー曲『星空の孤独』(68年)を作曲・制作したのをはじめ、同社の事業部の一つであるRCAレコードの最年少ディレクターとしてめきめきと頭角を現した。

ビクター音産時代の12年間に手掛けた楽曲は前記の大ヒット曲のほか、日本人の女性フォークデュオ「シモンズ」の『恋人もいないのに』(71年)、イスラエル出身の「ヘドバとダビデ」の『ナオミの夢』(同)、西城秀樹の『ちぎれた愛』(73年)など、50代以上の日本人なら誰でも知っている往年の大ヒット曲ばかりだ。

当時を知る芸能関係者は「あの時代の芸能界で音楽と英語の両方に通じた人材は極めて稀で、多才なロビーさんはビクター音産にスカウトされて入社した期待の星でした。

しかも『社員ではシビアにものを作れない』と、あえて契約ディレクターの道を選んだ。当時そうしたケースは珍しく、誰もが驚いたものです」と振り返る。