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安倍晋三の正体〜安倍家三代、華麗なる政治家一族の謎に迫る

【特別公開】松田賢弥『絶頂の一族』
安倍晋三〔photo〕gettyimages

すべては偉大なる岸信介の血を残すために……。安倍晋三の母・洋子の執念は、この華麗なる政治家一族の姿をいびつなものにしている。養子縁組を繰り返し、家を守ることによって何が生まれたか?

安倍家三代を丹念に取材し、「安倍晋三」なるものの正体に迫った衝撃の書『絶頂の一族〜プリンス・安倍晋三と六人の「ファミリー」』よりプロローグを特別公開します!


プロローグ ゴッドマザー・安倍洋子を軸にした三代

養子縁組に依存するファミリー

11月とはいえ、時にあたたかい陽だまりの芝生の上で坊ちゃん刈りにカーディガンを羽織った二人の幼い男の子の間を、背広姿の初老の男が一緒に駆けっこに興じている。『毎日グラフ』(1956年12月9日号)に載ったスナップ写真の一枚で、男の子は4歳の安倍寛信と2歳の弟の晋三、初老の男は発足したばかりの自民党の幹事長・岸信介である。二人の男の子は、岸の娘・洋子が産んだ孫だった。この時、岸は60歳だった。

都内でも指折りの高級住宅地としてその名が知られる渋谷区南平台。岸が自身の邸宅に隣接する往年の名女優・高峰三枝子の五百坪の土地と屋敷をそっくり借り受け、二軒合わせて自宅兼迎賓館として使い出したのは56年夏のことだ。ヨチヨチ歩きの二人の孫と岸が戯れる芝生は、高峰が映画人らを招き華やかなパーティに酔いしれた場所でもあった。

スナップ写真の中には、口に入れた指をしゃぶる晋三が兄の寛信に仲睦じく寄り添う一枚もある。キャプションにはこう記されている。

「ガランとした(岸)私邸の応接間で遊びに来た孫たちが〝いちばん目に好きなおじいちゃん〟の現われるのをまっている 好きな理由は〝いつもいいものをくれるんだもの〟」

ちょうどこのスナップが撮られた頃、父の晋太郎は毎日新聞社を辞め、外務大臣・岸の秘書官に転身。さらに58年、晋太郎は旧山口一区から衆議院選に出馬し、初当選している。

晋三の弟で、三男の信夫が生まれたのは、翌59年のことだった。実は、晋太郎と岸の長女・洋子が結婚する際、「三人目が男なら岸家の養子とする」との約束事が交わされていたという。岸の長男である信和と仲子夫妻に子供ができなかったからに他ならない。

信夫が生まれてすぐ、晋太郎夫妻と信和夫妻に、岸の弟・佐藤栄作(後の総理)が加わって話し合いがもたれた。野上忠興『気骨 安倍晋三のDNA』(講談社)によると、席上佐藤が「晋太郎、本当に出していいんだな」と強く念を押す場面があったという。また、岸も「洋子、無理をしなくてもいいんだからね」と言い、洋子がわが子を手放すことをためらったという話もある。

岸は、自分が中学卒業と同時に養子に出された身だけに、ことのほか孫の信夫を可愛いがった。安倍家へ頻繁に遊びに来る信夫は、洋子を「おばちゃま」と呼んだ。養子に出された事情を知りながら口に出さない寛信・晋三兄弟のことは「おっきい兄ちゃん」「ちっちゃい兄ちゃん」と呼び、彼らの方は「ノブちゃん」「ノブオ」と声をかけて育った。

名門の血脈を守り、絶やさないために養子縁組に依存するこのファミリーに育った晋三。

これまで繰り返されたのは佐藤、岸両家の血が入り混じることだった。その先に、晋太郎が加わることで安倍家の血脈が生まれた。さらに、三男・信夫を岸家の養子に迎える。岸家にすれば血のいわば逆輸入によって血族が保たれたのである。ただ、洋子は、わが子・信夫を養子に出したことを悔いていた。それは、後に信夫が政治家になるにあたり、育ての母・岸仲子の悲劇を生むことになる。

父母不在の邸宅

南平台の家は岸の首相公邸としても使われ、60年、戦後最大の騒擾と今もって語り継がれる安保改定阻止闘争のひとつの舞台にもなった邸宅だ。父・岸信介の身を案じる娘の洋子と、寛信・晋三の二人の孫は、連日のように社旗を立てた新聞社の車に乗せられ、裏道から勝手口に抜けて邸宅に入り込んだ。洋子は岸と孫らの情景をこう記している。

「わたくしが子供たちを連れて訪れますと、デモ隊がとり巻いている家のなかで、さっそく父は孫たちと鬼ごっこに興じるのです。また、子供たちからすればデモ騒ぎもお祭りごと、外のシュプレヒコールをまねして『アンポ、ハンタイ!』と座敷を駆け回るのを、(中略)父はただ愉快そうに笑って見ているばかりでした。

さんざんはしゃいだのち疲れて寝入ってしまった次男(晋三)を膝に抱き、晩春の陽差しの下、縁側に坐ってデモ隊の行列をあかず眺めておりました父の後姿が、いまも目に浮かぶようです」(『中央公論』87年10月号「父 岸信介の素顔」)

南平台の邸宅の窓からデモ隊と機動隊の群衆が揉み合う光景に、50年余り経て総理の座につくことになる晋三が6歳の眼で何を見たのかはわからない。

晋三は両親不在の家庭に育った。安保闘争が終息してからも、それは変わることがなかった。晋三自身がこう語っている。

「やっぱり普通の家庭への憧れはあった。人の家に遊びに行って友達が両親なんかと楽しそうに話してたり、父親と何か楽しそうにやり合っているのを見ると『ああ、いいな』と思ったりしたものです。それに引き替え、うちの家には父は全然いないし、母も選挙区へ帰ることが多かった。だから父がたまに家にいたりすると、何かぎくしゃくした感じがしたものだった」(『気骨 安倍晋三のDNA』)

洋子はこれを「我が家は独立国家の共同体のようなものでした」と表わした(前掲書)。

晋三は洋子の愛情、なかでも男の子ならこの時期、誰しもそうだが、母親の温もりを人一倍求めていた。母・洋子への思慕は祖父・岸信介への思いに繋がっていく。「おじいちゃんを褒めれば、お母さんが喜ぶ」という幼少の記憶が、晋三にはずっと残っていたという。

言葉を換えて言うなら、全然家に帰らない晋太郎よりも、祖父・岸信介が晋三の精神形成の上でも「父親」の存在だったように思えてならない。

岸は60年安保を成立させて総理を退いた後、南平台からいったん渋谷区富ケ谷に転居。その後、70年から静岡県御殿場に居を移した。鬱蒼とした杉林に囲まれ、約千六百坪の敷地に、二階建ての瀟洒な屋敷(総面積約百七十坪)が建つ。この豪邸は岸の終の棲家となる。晋三は当時成蹊学園の高校生だった。この頃、岸は晋三のことをこう洋子に語っていた。

「振り返ってみますと、『晋三は政治家になるよ』と最初に予言したのは、父・岸信介でした。当時、父は御殿場に住まいを移していましたが、私たちの住んでいた世田谷の家を訪ねると、『ああ、おじいさま』と言って真っ先にやって来るのは、きまって晋三だと言うのです。『きっと政治の世界に興味があるんだ。あれは政治家になる』と御殿場に帰って、嬉しそうに語っていたそうです」(『文藝春秋』03年11月号「息子・安倍晋三」)

晋三は政治家になると最初に予見していたのが、あの岸信介だったという逸話は興味深い。安保改定を前にした59年には岸家の養子となる三男の信夫が誕生しているものの、岸は名門の血族を継ぐ子として晋三を寵愛していたことが窺えるからだ。

「戦犯の孫」と60年安保

その晋三が多感な高校生時代に、安保の自動延長を巡る70年安保闘争が起こっている。反安保統一行動には全国で77万人が参加。また、東大安田講堂の封鎖解除に機動隊が出動した(69年)ことに象徴されるように、ベトナム反戦運動と相俟って学生運動も広がった。

一方、万博が開かれ(大阪・千里丘陵)、入場者数は6421万人余りにのぼった。東京・杉並区で光化学スモッグが発生し、作家・三島由紀夫が東京・市ヶ谷の自衛隊駐屯地内で決起を呼びかけた後、割腹自殺(45歳)を遂げるなど、70年の世情は騒然としていた。この中で晋三は何を考えていたのだろうか。晋三は激したようにこう吐露している。

「日米安保を堅持しようとする保守の自民党が悪玉で、安保破棄を主張する革新勢力が善玉という図式だ。マスコミも意図的に、そう演出していた。打倒する相手は、自民党の政治家だったわたしの父や祖父である。とりわけ祖父は、国論を二分した一九六〇年の安保騒動のときの首相であり、安保を改定した張本人だったから、かれらにとっては、悪玉どころか極悪人である」『新しい国へ 美しい国へ完全版』

あの60年安保の時、祖父の岸や母の洋子にはある悲愴感すら漂っていた。大量の警官を国会に導入し、新安保(改定安保)を自民党単独で可決した瞬間、国会に向けた全国の安保阻止闘争は臨界点に達した。

新安保の強行採決(5月20日未明)を巡り岸は、「手続きが異常であることはだれの指摘をまつまでもなく、全員承知の上で踏み切らざるを得なかったのである。いわば、選択の余地はほかになかった」(『岸信介回顧録』)と、異常な採決だったと当時を述懐している。

一方、洋子は、東京大学文学部四年生・樺美智子(22歳)が圧死(6月15日)した報に接し、「突然、鉛のオモリを呑まされたような目まいと吐き気を覚え、恐ろしくなりました。もう安保なんか放り出してほしい、(岸が)たったひとりでそこまで国の責任を背負ういわれはないでしょう、と叫びたい思いでした」(「父 岸信介の素顔」)と生々しく語っている。60年安保は、この国で不幸な出発をしたと思わざるを得ない。

しかし、晋三の視点はあの時代をくぐり抜けた岸や洋子と微妙に異なる。

「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。

間違っているのは、安保反対を叫ぶかれらのほうではないか。長じるにしたがって、わたしは、そう思うようになった」(『新しい国へ』)

晋三の原点はそこにある。幼い目で南平台の岸邸の窓から見た「岸打倒・安保反対」に拳を振り上げる群衆の中から岸が「A級戦犯の容疑者」「安保反動の権化」「政界の黒幕」と呼ばれることに反発しながら、政治の道に入ったのである。

晋三が靖国神社を参拝する背景には、「一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表するのは、どこの国でもおこなう行為である」(前掲書)との考えがあるからだろう。そこにはA級戦犯容疑者として獄に繋がれた祖父・岸の汚名を晴らそうとする「戦犯の孫」の意志が見てとれる。

晋三にとって岸は政治のシェルパ(案内人)であり、岸がなし得なかった憲法改正の宿題を孫の自分がなし遂げようとする意志が見え隠れする。しかも見過ごすことができないのは、晋三が政権の座にあるということは、岸の娘・洋子が岸家の伝道師として晋三の陰にいるということでもある。

司令塔としての安倍洋子

総理の小泉純一郎がまだ49歳の晋三を自民党幹事長に抜擢したのは、03年9月の第二次改造内閣の時だった。

洋子の父・岸信介は、結成されたばかりの自民党初代幹事長(55年11月)、夫の安倍晋太郎は竹下登内閣の幹事長(87年10月)と、三代続いて幹事長が生まれたのである。前代未聞のことだった。ある意味、政治家の家系の極みで、三代の陰でそれを見続けた洋子は、昂奮した面持ちで雑誌のインタビューに応じていた。

「晋三の携帯には次から次へと電話がかかってきて、何事かと思ったんですけど、それでも晋三は言わない。そうしたらお手伝いさんが走ってきて大きな声で、

『晋三さん、幹事長ですって!』

と言うんです。ビックリしましたけど、すぐには信じられませんでしたね。

前に、中曽根裁定で次期総理が夫(晋太郎)に決まったと時事通信が打った時があったんです。昭恵さん(安倍晋三夫人)が外国にいた寛信(晋三の兄)に電話しようとしたので、私は止めました。政治というのは土壇場で何が起こるかわからない。正式に決定するまで、誰にも言っては駄目なんですよって」(『WiLL』06年11月号)

戦後最大の政治闘争を生きた岸の娘として、そして息子・晋三の司令塔として生きている覚悟を窺わせる言葉だ。さらに洋子はこうも語っている。

「晋三が幹事長になる、と聞いてまず初めに思ったのが、晋三の身体のことです。父や夫を見ていて幹事長がいかに大変だったのか知っていますからね。晋三はこれまで神戸製鋼時代も、政治家になってからも一度入院したことがある。あの激務に耐えられるかどうか心配でした。

まぁこれは、昨年(注・03年)の衆院選挙で百八十ヵ所以上まわったところを見ると、もう大丈夫そうですね」(前掲書)

しかし洋子の不安は的中する。晋三が総理に就く(06年9月)ものの、松岡利勝農林水産大臣(当時)の自殺や後任の赤城徳彦の事務所費問題による辞任などが相次ぎ、最終的に潰瘍性大腸炎を理由に総理を辞任した。

振り返るに洋子は、父・晋太郎の後を継いだ晋三の出馬(93年)に合わせるように著した『わたしの安倍晋太郎』の中で、晋三に流れる政治家の血についてこう綴っている。

「政治の道の跡継ぎとしての晋三は、主人が、安倍寛と岸信介の信念に生きる芯の強さというものを見てきたように、安倍晋太郎のことはもちろんずっと見てきていますし、安保のときの岸信介のようすも子どもながらに見ております。安倍寛の血といい、岸信介の血といい、なにかのときには命がけで事に当たるというきびしさは、ものの本で読んだというのとはまた違って、身近な空気として体得しているということはあると思います。その覚悟ができていて政治の世界に飛び込むのですから、わたくしに異存があるはずもございません。

ただ、主人が幼時から育ってきた体験にくらべ、物心ついたときには『総理の孫』として育っていた晋三には、まだまだこれから何事にも初めて知ることが多いはずで、それが、わたくしの案じているところなのです」

さらに洋子は晋三が幹事長に就いた当時、彼の性格から政治家の資質をこう見抜いていた。

「ちょっと晋三の姿が見えないと、主人は『どこに行ってたんだ。秘書なんだからしっかりしなくちゃ駄目じゃないか』と叱っていましたが、それだけ気になっていたのでしょう。

『俺も甘いところがあるけれど、晋三も俺に輪をかけたようなところがあるからな』とも申しておりました。

晋三にも強情っ張りな、頑固なところがありますけど、気持ちの優しい、情にもろい一面があります。しかし、難局にあたって、自分の信念を貫くためには、ちょうど父が安保のときに示したような決断、勇気が必要になる。主人はそこを言いたかったのでしょう。

(中略)

よく『晋三さんはお父さんの晋太郎さん似ですか、お祖父さんの岸さんに似ていますか』と聞かれます。私からみると、『政策は祖父似、性格は父似』でしょうか。晋三もせっかちで、演説させても早口でしょう。このごろ、わりにゆっくり話せるようになりましたが、政治家になって最初の頃は『あなた、早口過ぎて、お年寄りの方には聞き取れないわよ。それにあんまりキョロキョロしないように』なんて注意していました」(「息子・安倍晋三」)

洋子から見て晋三の政策が岸信介似という指摘は、その後の晋三の政治姿勢を考える上で非常に興味深い。洋子が、マスコミに対し、息子の晋三についてこれほど心情を吐露したことはほとんどない。洋子は晋三の幹事長就任の日、仏前に手を合わせたという。

安倍家の縁戚によると、洋子は寛信・晋三の兄弟が成長するにつれ、「男は何かやるなら政治家。政治家になるなら総理を目指すべきだ」と時に口にしていたという。

角栄との因縁の対決

晋三が初当選した93年7月の総選挙は、自民党が過半数割れで、社会党(当時)が減り、新生党と日本新党が躍進し、長年にわたった自民・社会主導の五五年体制が崩壊した年でもあった。

その後、細川護煕を総理に仰いだ非自民連立(八党派)政権が樹立されるも、政権で采配を振る陰の主役は小沢一郎だった。小沢といえば言うまでもなく田中角栄が師であり、角栄の肩越しに政治を見て育った政治家である。かつてその角栄の台頭を敵対視していたのが岸だった。洋子が記している。

「わたくしの知るかぎり、父は過去に二回だけ、見るに忍びないほど落胆した表情を見せたことがあります。一つは安保改定のときにアイゼンハワー大統領の訪日が中止になったときで、もう一つは昭和四十七年の総裁選で福田赳夫先生が田中角栄さんに敗れたときです。この総裁選は、佐藤(栄作)の叔父が兄弟宰相を実現し、七年八ヵ月の長期政権を担当したあとでしたが、父は政策集団の後継者の福田先生が勝つことを信じていたのです。

『総理というのは、ほかの大臣になるのとは違って、だれにでもなれるというものではない。田中は優秀な男だが、人には向き不向きがある。彼が総理になるようじゃ、日本の国はたいへんなことになるよ。彼が総理になるなんて考えられない』と、父は言っておりました」(『わたしの安倍晋太郎』)

岸信介と佐藤栄作という兄弟宰相を輩出した類稀れな閨閥と、馬喰の倅で尋常高等小学校卒業の学歴しか持たず総理にまで上りつめた角栄。岸の来歴からすれば、角栄は語るには論外の、ただの一兵卒だったかもしれない。

一方、岸の流れを汲む福田赳夫もまた一高・東京帝国大学法学部出身の大蔵省エリート官僚だった。その福田が総理の座を争って角栄に敗れ、その後政権を持ったもののその任期が76年からの2年間に過ぎなかったのはなぜだろうか。

角栄が「闇将軍」と畏れられたのは、自民党で群を抜く数とカネで形成した権力を持っていたからだ。しかし、それだけで人心は掴めるものではない。たとえば、角栄は料亭に出向くと運転手、仲居、下足番に至るまで分け隔てすることなく心づけを欠かさなかった。いくら権力やカネがあったからといって、そうそうできることではない。角栄はまわりに言い聞かせていた。

「料亭なんかに行って、不愉快なことがあっても、下足番のおじさんや、仲居さんに絶対あたっちゃいかん。彼らは仕事として我々に接しているのだから、何も言えない。弱い立場の人は大事にしなくちゃいかん」

世間の裏や暗さの辛酸を舐め、人生の術を独学で習得し地べたから這い上がってきたからこそ口をついて出る言葉だった。角栄の人間性、人を惹きつけてやまない人との紐帯はそこに窺える。閨閥や学閥だけでも仰ぎ見られるような存在だった岸信介、福田赳夫には掴みとれない角栄独自の人間性だった。そこに岸・福田が角栄に敗れた理由のひとつがあったように思える。

実は、岸と角栄は政治の世界以外に、ある女を巡って因縁があった。

角栄には子をなすまでの愛人が二人いたことはよく知られる。一人は角栄の金庫番で「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭子で、昭子は角栄との間に一人娘・敦子をなした。もう一人は、東京・神楽坂の芸者だった辻和子で、角栄との間に二男一女をもうけた。男の子は京と祐といった。

戦後間もない46年のことだった。その辻が「円弥」という芸妓名で座敷に出ていた19歳の時、田中土建工業を興し戦後の土地ブームで飛ぶ鳥を落とす勢いだった角栄と知り合う。

「円弥」こと辻和子は、持ち前の美貌と才覚で、最盛期で600名の芸者衆がいた神楽坂の花柳界で売れっ子になっていく。角栄は47年4月、衆院議員に初当選し法務政務次官に就任(48年)。辻は角栄の援助を受けながらも座敷に出ていた。

二度目の総選挙(49年1月)から後のことだった。岸信介から「一心」と墨書された幅一メートルもある額入りの書が置屋に届けられたのである。「岸先生から円弥さんに」という伝言があった。

その頃の岸は48年に巣鴨プリズンを釈放後、東京・銀座に箕山社という名の事務所を設立し政界復帰に向け活動を再開している。辻はその岸の座敷に数回呼ばれたことはあったが、書をもらうほどの親しい関係ではなかった。その一件を辻は角栄に隠し通した。ところが、その後も岸は彼女に言い寄ってきたのだった。

辻の知人によると、岸は辻にこう言って口説いたという。

「絵画を一枚やるから、俺の女にならないか」

岸の申し入れを、結局辻は断った。後年、辻は先の知人に「冗談じゃないわよ。絵一枚で口説くなんて」と苦笑しながら語っている。岸が角栄を評し、「彼が総理になるなんて考えられない」と手厳しく語っていた背景には、このような知られざる秘話もあったというのは穿ち過ぎだろうか。

小沢一郎の転落が招来したもの

一方、政界の一線から退いた福田は、岸の娘婿である安倍晋太郎を総理総裁候補に担ぐ。しかし、晋太郎は悲運にも志半ばでガンに倒れた。福田が旗揚げした派閥・清和会が独自に政権を獲るには、森喜朗(00年)を除けば01年の小泉純一郎の登場まで35年も待たなくてはならなかった。そして、小泉はまだ49歳の晋三を自民党幹事長に指名し、総理(06年9月)にまで引き上げたのだった。

しかし前述したように、松岡利勝農林水産大臣とその後継大臣の赤城徳彦らの「政治とカネ」の問題が響き、07年7月の参院選で自民党は27議席も減らし、惨敗。晋三は総理を退いた。

その後の総選挙で、事実上小沢一郎が率いる民主党に敗北(09年8月、民主党308、自民党119議席)、政権交代が引き起こされた。岸信介の孫・晋三と角栄の秘蔵っ子として育ち、長い間、政権を牛耳ってきた小沢との因縁の対決は、とりあえず小沢が制したのである。

ところが舞台は再び一転する。

12年7月、消費税増税を巡り小沢は時の野田佳彦政権と対立。小沢は彼に同調する約50名を引き連れて離党し、民主党は分裂した。

この分裂劇の狭間で世に出たのが『週刊文春』(12年6月21日号)に載った拙稿「小沢一郎 妻からの『離縁状』」である。政権交代の立役者だった小沢は、和子夫人が綴った「離縁状」によって一気に窮地に陥る。

そこには小沢の愛人である料亭の元女将のもとに20歳を過ぎた小沢の隠し子(男の子)が存在し、それを巡って小沢から〈あいつ(元女将)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる〉などの言葉を投げつけられ、一時は自殺まで考えたことなどが綴られていた。

そして、小沢が東日本大震災の被災地となった故郷・岩手の人々を顧みず、それどころか原発事故による放射能被害を怖れて東京から真っ先に逃げ出そうとした姿に触れ、〈こんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています〉と、十一枚の便箋に赤裸々に告白していた。

私は驚愕した。小沢が角栄の仲立ちで和子と結婚したのは73年10月のことだ。それから三人の息子をなし、40年近くも連れ添った和子が、小沢という人間の本性を白日の下に晒したのである。

小沢の虚像は剥げ落ち、陰の主役の座から滑り落ちた。それは自壊と言うべきもので、離縁状の放った一矢は、ギシギシと音を立てて歴史の歯車を回した。当時東日本大震災から1年余りにもかかわらず、日がな政争に明け暮れる民主党政権に一石を投じ波紋は広がった。

民主党分裂と小沢の瓦解。その敵失に乗じて、晋三を総裁に仰ぐ自民党は12年12月の総選挙で圧勝し(自民党294、民主党57議席)、政権交代劇はわずか3年3ヵ月で潰えた。角栄の軛は、岸の孫・晋三の代で小沢が瓦解することで解かれたのである。

洋子は父の無念を息子に託す

それから2年経った14年11月。晋三は衆議院の解散に踏み切った。1ヵ月後の総選挙で、政権与党の自民党291議席・公明党35議席の計326議席と、定数の3分の2(317)を上回る議席を獲得した。

国会による憲法改正の発議には、衆参両院で3分の2以上の賛成が必要だ。自公で衆院は3分の2を維持したものの、参院の3分の2(162議席)には28議席(議長を除く)足りない。

総選挙投開票の夜、テレビ東京の番組に出演(電話)した晋三は、ジャーナリスト・池上彰が「憲法改正が視野に入ってくる。やはりご自身の手で成し遂げたいか」と問うと、こう答えた。

「国民的な必要です。3分の2の勢力をつくったとしても国民投票で過半数の支持を得なければなりません。そこから理解を得ていきたい」

池上が再び、「憲法改正に向けて一歩一歩進めていくということか」と質すと、晋三は「そういうことです」と応じた。

祖父から孫に引き継がれる念願の憲法改正。国が岐路に立つ時に岸信介を意識する晋三を見ていると、彼の心の拠り所には波瀾に富んだ岸信介の生涯と、それを伝承する生き証人と言うべき岸の娘・洋子の存在が重きをなしているように思えてならない。

御殿場に居を構えた岸は、『岸信介証言録』の中で、インタビュアーの原彬久から「もう一度総理大臣をやりたいとはお考えになりませんでしたか」と問われ、こう答えている。

「いや、そりゃあね、もう一遍私が総理になってだ、憲法改正を政府としてやるんだという方針を打ち出したいと考えたんです。私が総理を辞めてから、あまりにもだな、池田(勇人元総理)および私の弟(佐藤栄作元総理)が『憲法はもはや定着しつつあるから改正はやらん』というようなことをいってたんでね。

私が戦後の政界に復帰したのは日本立て直しの上において憲法改正がいかに必要かということを痛感しておったためなんです。だからこの改憲気運をもう少し盛り上げる必要があった。

憲法の『定着』をいまの鈴木(元総理)もいうてるけど……。いまの憲法がどのようにしてできたのか、その内容がどういうものであるのか国民は関心がないというよりは、知らないんだよ。この憲法があれば戦争がないのだと思っているが、そんなものではない。憲法を改正したら戦争になる、というのではないんだ」

憲法第9条(平和主義)の第1項(戦争の放棄)、第2項(戦力の保持、交戦権の不認)を軸にした改憲に、岸は並々ならぬ意欲を抱き、その志を遺していった。

東京・永田町の議員会館の晋三の部屋に置かれた屏風に、ある墨書がしたためられている。

「逢龍」

12年辰年の初頭、洋子がわが子、晋三に「昇り龍に会えるように」と筆を取ったもので、その年の師走、晋三は二度目の総理に就いた。未完で終わった岸の憲法改正を洋子は息子の晋三に託そうとしている。

一方で、洋子を中心軸に岸から晋三に繋がる脈々とした血族の傍流というべき存在が安倍晋太郎、安倍昭恵、岸仲子らのように思える。三人とも、岸が頂点の閨閥の流れから見れば他人だった。そこには彼らのもう一つのドラマがあった。

(続きは本書でお楽しみください)