タモリとは「日本の戦後」そのものだった!〜終戦の1週間後に生まれた稀代の芸人の半生

【前書き公開】近藤正高=著『タモリと戦後ニッポン』
近藤 正高 プロフィール

 この点で、タモリが自分の芸について、対象と《同じように真似しても、立っている位置みたいなものは全然違う》と分析しているのと通じるものがある(『広告批評』前掲号)。ウォーホルの絵の魅力が色ズレや版ズレにあるように、タモリのモノマネもまた、オリジナルとのズレから異なる意味を生み出すところにこそあった。北京放送のモノマネはその代表作だ。

 北京放送は中国共産党が対外プロパガンダのため日本語などで発信していたもので、タモリより若い世代にも子供のころに愛聴していたという人は結構多い。《あれはウォーホルの毛沢東の肖像みたいな感じで、当時最もポップな放送だったから、一家で毎晩喜んで聞いてたんです》とは、57年生まれの社会思想研究者・経済学者の浅田彰の言だ(浅田彰・島田雅彦『天使が通る』)。

 浅田はべつのところで、「北京……放送局です」とアナウンサーが一瞬、間を置くのが何とも言えないとも語っている(『SAGE』1984年2月号)。プロパガンダをまともに受け取るのではなく、その語りの間の置き方、あるいは仰々しい物言いから楽しむという姿勢は、北京放送を真似するタモリとまったく同じだ。

 ウォーホルとタモリには、その交友関係にも共通性が見出せる。ウォーホルは「ファクトリー」と名づけたスタジオでしょっちゅうパーティを開いては多くの有名無名の人々と交友した。そしてそこで知り合った人たちと映画をつくったりロックバンドを組んだりと、ジャンルを超えた活動を展開している。

 一方、タモリは、ジャズ・ピアニストの山下洋輔やマンガ家の赤塚不二夫などといった人たちとの交友なくしてはタレントとして世に出てくることはなかった。そのつきあいのなかから生まれた芸も少なくない。ウォーホルのファクトリーが同時代のアメリカ文化の象徴であったように、タモリの交友関係を探ることはそのまま戦後ニッポンのサブカルチャーの歴史をたどることでもある。

タモリの言う「国民」とは?

 タモリは人気がブレイクした1981年頃、自らを「国民のオモチャ」と称した。そこには自分は国民に遊ばれる存在で、飽きられたら容赦なく捨てられるとの自虐的な意味合いがこめられていた。

 さらにフジテレビの『笑っていいとも!』の終了発表の際(2013年10月22日)には「国民のみなさまにも、ほんとどっち向いても感謝です」とあいさつを述べた。「ファン」でも「視聴者」でもなく「国民」と言っているのが独特だ。

 たしかに「国民的スター」「国民的アイドル」「国民作家」などという言葉は昔からあるが、それらはあくまで他称だ。芸能人が自ら「国民」と口にするのはタモリぐらいではないか。しかしそこに嫌味は感じられない。30年以上にわたり日本の昼の番組の顔だった彼が「国民」と口にするのはごく自然に受け取れる。

 とはいえ、テレビタレントが「国民のオモチャ」などと名乗るのはタモリが最初で最後ではないかという気もする。老若男女を問わず誰もが目にする番組がほとんどなくなり、それどころかテレビをほとんど見ない人も増えたいまとなっては、視聴者は国民とはイコールではなくなってしまったからだ。