負けてばかりの「劉邦」がなぜ皇帝になれたのか
【書評】宮城谷昌光『劉邦』/評者 小梛治宣(日本大学教授・文芸評論家)
劉邦の故郷、中国の徐州市(PHOTO/wikipediaより)

朝を覆す「天子の気」を放つ者を殺せ――秦の始皇帝の刺客が、地方の小役人を襲撃する場面から物語は幕を上げる。

その狙われた人物こそ、のちに前漢の初代皇帝となる劉邦であった。本作では、劉邦が項羽との長い死闘を制し、中国全土の平定を果たすまでの刻苦の道程が、骨太に描き出される。

農民の子で、若いころは無頼の徒、官吏になってからもなんら実績を挙げたことのない、酒好き、女好きの男がなぜ、始皇帝亡きあとの動乱を勝ち抜き皇帝にまで昇り詰めることができたのか。この大いなる謎に、作者は『史記』をベースとしながらも、独自の推理を加え挑んでいく。

劉邦は、天下平定に至るまでの数多くの戦いで、よく負けた。一方、宿敵項羽は負けることを知らぬ常勝の人であった。だが、劉邦が一戦ごとに人間としての成長を遂げていくのに対して、項羽にはそれがない。それは、両者の部下にも言えることであった。

劉邦の軍は、部下が自らの頭を使って戦う。それに対して項羽の部下は命令の遂行に必死で独自の発想を持つ余裕などない。その結果劉邦軍にはのびやかさとしなやかさが生まれ、それが、何度も窮地に陥る劉邦を救い、復活させることにもなったのだ。

見方を変えると、劉邦は、逸材を見つけ出し彼らを適材適所に配置する達人であった。それを支えたのが超人的な直観力であった。しかも名軍師張良を筆頭とする将たちの忠告にもよく耳を傾け、それを素直に受け入れる度量の広さももち合わせていた。敵を味方にして活かすという発想も、そうした柔軟な思考から生まれたものであろう。

それに対して、門閥出身の若い項羽にとって敵は敵以外のなにものでもなく、すべてを殺さないと気がすまない。兵隊はおろか、占領地の民衆ことごとくを殺してしまう。項羽が、恐怖で人を支配するのに対し、劉邦は愛で人の心をとらえようとする。この違いが、両者の命運を決した。紀元前の英傑たちの生きざまは、現代人にとっても学ぶところは無限だ。

最後に次の一文を引用して締めることにしよう。

〈劉邦は速成を信用しない。かれ自身、48歳であるが、たいしたことを成したわけではない。むだに生きてきたと嗤われるであろう。だが、むだに生きてきたという経験こそが、もっとも貴重となる時がある。無益の積み重ねが、有益の上限を超えるといいかえてもよい。―愚者は賢者にまさるということよ〉

『週刊現代』2015年8月29日号より

おなぎ・はるのぶ/日大経済学部長を務めるかたわら文芸評論家として活躍。著書に『介護文学にみる老いの姿』他

『劉邦』
著者・宮城谷昌光 毎日新聞出版/各1600円

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秦末、王朝を覆す「天子の気」を遠望した始皇帝は、その気を放つ者を殺すように命じる。配下に襲われた泗水亭長・劉邦は、九死に一生を得る。始皇帝の死後、陵墓建設のため、劉邦は百人の人夫を連れて関中に向かうことを命じられるが…。三国志より遡ること約400年、宿敵・項羽との歴史に残る大合戦を制した男の全く新しい人間像を描き出す、傑作長編小説の誕生!

みやぎたに・まさみつ/'45年生まれ。'91年『夏姫春秋』で直木賞受賞。'06年紫綬褒章を受章。『孟嘗君』『三国志』他


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