『妻と飛んだ特攻兵』敗れてもなお、守るべきものがある。~大空に散った若き夫婦が遺したこの国へのメッセージ
豊田 正康

 単なる自殺行為ではない

とにかく恐山の麓に行き、谷藤姓の人を探そうと、同年の冬に下北半島を訪れた。幸運にも、そこで谷藤徹夫の妹の娘、つまり徹夫の姪がむつ市に存命であるという情報にすぐに辿り着くことができた。親族に逢う前にまず谷藤家のお墓参りをしようと思い立った。雪が降りしきる中、田部川沿いにある古刹、円通寺で谷藤家の墓誌を目にした瞬間、身体が打ち震えた。

昭和二十年八月十九日没 谷藤徹夫 行年 二十四歳
昭和二十年八月十九日没 谷藤朝子 行年 二十六歳

谷藤徹夫・朝子という若い夫婦の命日は、紛れもなく昭和20年8月19日だったのだ。二人の壮絶な人生が急にリアリティーをもって立ち上がるように感じた。

墓参りをしたその足で、谷藤徹夫の姪の小原真知子さんを訪問した。彼女は母親から、徹夫やその妻、朝子の人柄などを伝え聞いていた。そして、私が訪れるちょうど数日前に、谷藤徹夫の弟、勝夫さんがかつて経営していた映画館や住んでいた家が取り壊しになり、徹夫の遺品がたくさん出てきたところだということを小原さんから聞いた。

「豊田さんがまるで見計らったようにいらしたので驚きました」

この不思議なタイミングに私は運命のようなものを感じ、この事実を追い求める覚悟を改めて決め、取材にのめり込んでいった。

徹夫は、なぜ特攻機に朝子を乗せたのか。そもそも二人は、どうして戦争が終わったはずの8月19日に特攻を行ったのか。

終戦直後の満州では、日ソ中立条約を一方的に破って攻め込んできたソ連軍により、日本人居留民の大虐殺が繰り広げられていた。特に女性はソ連兵から凌辱の限りを尽くされていた。しかし満州駐留の日本陸軍「関東軍」は降伏命令に従い、同胞を見捨ててソ連軍との戦闘を放棄した。    

その時、関東軍総司令部の降伏命令に背き、ソ連軍と戦うと決断した男たちがいた。満州南部の大虎山飛行場に駐屯していた谷藤徹夫ら11人の飛行兵である。

彼らは旅館で密議を重ねてソ連戦車隊への特攻作戦を計画し、自らを「神州不滅特別攻撃隊」と命名した。たとえそれが、獰猛な虎への小蜂の一刺しであったとしても、ソ連軍が特攻攻撃を受けるのは初めてである。「日本兵を怒らせると次々に特攻してくる」と心理的に動揺し、ソ連軍の進撃が一時的に止まれば、日本人居留民の逃避の時間を少しでも稼げる。徹夫たちはそのために、自らの命を犠牲にすると決断したのだ。

前日に夫から特攻の決意を告げられた朝子は、「私も連れていってください」と哀願した。ソ連兵から辱めを受け、仮に命を落とさずに済んだとしても、一生消えることのない疵を負うくらいなら、最愛の夫とともに敵軍に突撃して果てたいという新妻の切なる願いを徹夫は受け入れた。

そして、11人の特攻兵とともに朝子は散った。大虎山飛行場での目撃証言によれば、朝子は白いワンピース姿で特攻機に乗り込んだという。

戦後のうのうと生き残った元軍幹部は、「あれは命令による特攻ではないから、単なる自殺行為だ」と蔑み、女性を同乗させたことを「軍紀違反」と非難した。彼、彼女らは戦犯同然の扱いを受け、戦没者に名を連ねることも許されなかった。そのため遺族は世間体を気にして、葬式さえ挙げていなかった。

だが、満州で同じ部隊だった戦友たちの尽力により、終戦から22年後の昭和42年、東京・世田谷観音に神州不滅特攻隊の慰霊碑が建立された。その後、厚生省(当時)が戦没者と認定し、谷藤徹夫ら11人の特攻兵は靖国神社に祀られた。

それから50年近い月日が流れ、彼らの供養を続けてきた遺族や戦友の大半が他界した。谷藤家においても徹夫と朝子を直接に知る親族はいなくなった。戦争に巻き込まれた若い夫婦の悲劇が世に伝わっていないことに、遺族や戦友はさぞ無念を感じていたことだろう。