「あんなの人間の遺体やない!」日航機事故で娘3人を失った夫妻の怒り

西村匡史著『悲しみを抱きしめて』
西村 匡史
御巣鷹を訪れた田渕夫妻。事故の後は、この地を訪れることが生き甲斐になっている。

田淵夫妻が最初に事故を知ったのは、テレビで搭乗者名簿に3人の名前が載っているのを見た、輝子さんの妹からの連絡だった。

「あの子たちはいつも最終便で帰ってくる。だからその便には乗ってへんから大丈夫よ」

輝子さんはそう妹に答えるとともに、自分にも言い聞かせた。だが次第に明らかになってくる情報はどれも悲観的な内容ばかり。親吾さんは当時を振り返る。

「頭からすべてが吹き飛んだ。不時着をただ祈るだけだった」

一方の輝子さんは、娘たちが亡くなっているとは想像だにしなかったという。

「きっと山の中でけがをしているから、早く助けてあげなければと思ってた。死んでいるなんて夢にも思わへんかった」

残酷すぎる現実

田淵夫妻は事故当日、日航が手配した大阪のホテルに駆けつけ、翌朝の臨時便で羽田空港に飛び立った。到着後、すぐにバスで群馬県藤岡市に向かう。

一刻も早く娘たちに会いたいと登山靴や雨具を用意してきたが、なぜか一行が到着したのは学校の体育館だった。墜落現場での捜索ではなく、ここに運ばれてくる遺体の中から肉親を確認する作業が待っていた。生存を信じている人々にはあまりにも残酷な作業だった。

山中に突っ込んだ機体は大破して炎上。奇跡的に4人が救助されたが、亡くなった520人の遺体の損傷は激しかった。首と胴体がつながっている完全遺体はわずかで、大半が部分遺体。当然ながら、身元の確認作業は難航した。しかも、真夏に起きた事故であるため、遺体の腐乱は早い。クーラーもない体育館のなかは暑さと激しい臭いが充満している。

多くの遺族は肉親を失った苦痛を背負いながらも、なんとか身体の一部だけでも戻ってほしいとの思いから、遺体との対面を繰り返していた。

 

田淵夫妻が初めて遺体の確認のために体育館に入ったのは、事故から3日経過した15日。それまでは別の体育館で遺体の検視を待っていた。

ずらりと並べられた柩に入っていたものは誰のものともわからない身元不明の遺体。一つ一つ確認しても手がかりは見つからない。

体育館を出た瞬間、輝子さんは叫び声をあげながら、日航職員におしぼりを投げつけてつめ寄っていた。

「うちの娘とは違う!あんなの人間の遺体やない!」