「あんなの人間の遺体やない!」
日航機事故で娘3人を失った夫妻の怒り

西村匡史著『悲しみを抱きしめて』第1章より(後編)

あの悲劇の大事故から今年で30年。3人の娘を奪われた田淵夫妻が初めて明かしてくれた事故後の凄絶な日々。それは想像をはるかに超えるものだった――。

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最後の写真

1985年8月12日午後6時56分。

そのとき、親吾さん(当時56歳)は父の代から続く町場の石鹸工場で働いていた。輝子さん(同51歳)は、旅行から帰宅する3人の娘たちの夕食の準備に追われていた。

ふだんと変わらぬ日常だった。

田淵さん一家は、夫妻と長女の陽子さん(当時24歳)、次女満さん(同19歳)、3女純子さん(同14歳)の5人家族。

実直な人柄の親吾さんは、子どもたちの学校で役員を務めるなど社交的な面ももつ。一方、輝子さんは夫の工場を手伝いながらも、子どもと過ごす時間を最優先に考え、娘たちが外出した際はどんなときでも眠らずに帰りを待つような、情愛の深い母親だった。

そんな夫妻のもとで3人の娘はのびのびと育っていく。

長女の陽子さんは親吾さんの会社名「山陽油脂」から一文字をとって名づけられた。仕事や家事で忙しい両親に代わって、妹たちの面倒をよくみるしっかり者である。

次女の満さんは予定より1ヵ月も早く生まれた子だった。満さんがお腹のなかにいるとき、母親の輝子さんは妊娠中毒症で、医師からは「お子さんの命はあきらめてください」と告げられている。

「せめて名前だけは満期に」という願いを込めて「満」という名前をつけた。控えめな大人しい性格で、飼っていた猫が一番懐くほど優しかった。

3女の純子さんは「純粋に物事を考えるように」という意味で名づけられ、その名の通り真っ直ぐ育っていく。

「純ちゃんは愛嬌がいいから、私の代わりにお使いにいくと、商店街のおじちゃんやおばちゃんがよく割り引きしてくれたんや。だから私もよう重宝したわ。学校や近所でもえらい人気者やった」

娘たちの話になると輝子さんは夢中になって止まらない。