70年前を振り返るんじゃなくて、今こそ70年後を考えたい!
いとうせいこう×高橋源一郎 "あの日"の後に書くことについて 3
いとうせいこうさん(左)と高橋源一郎さん(写真提供:日本近代文学館)

原発にしろ安保問題にしろ株価にしろ、「今ここ」の言葉ばかりに僕らは包囲されている。「考えている暇はない」「今すぐ決めろ」と。文学の言葉でやらなければならないことは、そういう凝り固まったものを雲散霧消させていくことではないか……。

二人の文学者が、未来のまだ見ぬ「他者」へ希望のバトンを渡すことについて語りつくす。感動の対談、最終回!


体験していなくても、想像力で語っていい

高橋:過去の死者を慰霊するということは、悲しんで頭を下げることじゃなくて、どっちかと言ったら、その人の代わりに何かを見るということなのかもしれない。いとうさんの『想像ラジオ』も、そうですよね。思うんだけれども、死んだ人間は物理的には存在していないでしょ。

いとう:うん、いない。

高橋:でもね、でもいると思っているでしょ、みんな。どこにいるかというと、この僕たちの中にいる。

いとう:僕らの脳の中にいるし、この社会がこうあるということに、物理的に表れていると思う。たとえばこういうペットボトルがあるということは、今までの研究者がいて、死者が重なってこうなっているわけですから。物質化しているっていうのは、霊が物質化してるんじゃなくて、歴史が物質化しているわけですよ。ですからこのような国があり、このような政治があるっていうのは、我々がやってきてしまったことが、このように物質化している。

しかしはたして過去のそういった人たちが、今のこの、なし崩しの法律を作って、一気に世界に敵が増えるような、こんな不用意な戦争のはじめ方なんて、望むだろうか。望むわけがないと思うんですね。すくなくとも宣戦布告をして、どこかとやるというならまだしも、誰が敵だか分らない状態になったときにどうなるか。

たとえば、あの第二次世界大戦を一番よく知っている人たちが警告しているものを物質化していくことが、我々にとっての責任だし、我々の未来を創るにはそうする以外ないんですよね。だって体験していないんだもん。体験していなかったら、想像するしかないじゃないですか。

だから『想像ラジオ』のときも、二章にボランティアを出して色々論争させていて、そこが小説じゃないんじゃないかと言われるけど、僕が何であれを入れたというと、被災地にさえ、もうその時のことを知らない子供たちが増えていくわけじゃないですか。そうすると、ここの土地にあんなことがあったって、皆はそう言うけど、自分は知らない。知らない自分は語っちゃいけないんじゃないかと思って育つ。それはまずいんじゃないか。語ってよいと言わなければならない。

戦争のことと全く同じです。僕らは戦争のことを知らないから、戦争のことを偉そうに言うなよっていう変な抑圧があった時に、「いや、そうじゃないんだよ」と。常に人は体験していないことの中にいながら未来を作っていくしかないわけだから、常にそれは自分の言葉として語っていいんだと。だって小説ってそういうものでしょう。