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なぜ心臓は「過労死」しないのか?
〜動き続ける臓器のミステリー

柿沼由彦=著『心臓の力 休めない臓器はなぜ「それ」を宿したのか』
〔photo〕iStock

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心臓のパラダイムを覆し、治療戦略を変える新発見!

アクセル(交感神経)とブレーキ(副交感神経)、心臓はこの両者にコントロールされているが、その分布を比べるとアクセルが圧倒的に多い。それなのになぜ、心臓は過労死しないのか? このミステリーに挑んだ著者らを待っていたのは、心臓に宿された身震いするような事実だった――。

世界初の「心臓が死なない理由」の発見はさらに、「心臓を強くする方法」の発見へとつながっていく。日本人の死因ではがんに次いで多い心筋梗塞などの虚血性心疾患への、画期的な新戦略が見えてきた!


まえがき

「あたりまえ」を疑う難しさ

 およそ研究に携わる者が忘れてはならない言葉の一つに「あたりまえの再定義」というものがある。これまであたりまえと考えられてきた事柄をもう一度、先入観を捨てて見直す作業のことだが、実際にそうした姿勢でものごとを見るのはいかに難しいかを、いま自分自身を振り返って感じている。

 真偽が定かでないことに対しては、研究者なら誰しもさまざまな可能性を考える。だが、いったんあたりまえだと思い込んでしまうと、「そう信じられてきたから」「そう言われてきたから」と思考停止して、その真偽を疑うことができなくなってしまうのである。

 たとえば、ある「あたりまえ」について、過去のデータや論文などにあたって真偽を見直そうとしてみたとしよう。誰もが常識と考えて、深く掘り下げてこなかったのだから、データや論文の数は当然、きわめて少ないはずだ。そのような、手がかりがほとんどない状況に出くわしたとき、私たちがとる態度は次のどちらかになるだろう。

 一つは、これほど疑問視されてこなかったのだから、明らかに正しいとみなしてよく、いまさらあえて研究対象とする意味はない、とする態度。もう一つは、これほど疑問視されてこなかったのだから、見過ごされてきた問題が何かあるはずだ、とする態度である。

 いうまでもなく後者の態度が「あたりまえの再定義」につながるのだが、筆者を含め多くの研究者は、往々にして前者のような態度をとってしまいがちなのである。

「常識破り」のシステム

 本書は筆者がたまたま、自分の専門領域である「心臓」において、見過ごされてきたある謎に対する好奇心から始まった研究によって、これまで「あたりまえ」と信じられてきたことを再定義するに至った経緯を記したものである。心臓ではこれまで、どのようなことが常識とされていたのか、そして、それがどのように覆されたのか、その経緯を一般の読者にもできるだけわかりやすく説明するよう心がけた。

 私たちの体においてきわめて重要な機能を持つ心臓は、決して心臓のみで自己完結しているわけではない。体内のさまざまな方面から、多大にして精密に影響を受けている。まずは、そのことを理解していただいたうえで、心臓についてのまさに常識破りともいえる新しい知見――現在では、「NNCCS」(a non-neuronal cardiac cholinergic system)、または「NNA」(a nonneuronal acetylcholine)と呼ばれているシステムについて紹介したい。日本語でいうと「非神経性心筋コリン作働系」というよくわからない訳になってしまうので、本書ではあえて英語で表記することにする。

 このシステムはわれわれが世界に先駆けて報告したものであるが、その後、ほかの複数の研究機関でも独立して同様の報告がなされていることから、その存在はほぼ確実なものになったと考えている。

ミステリーの向こうにあった驚くべき現象

 このシステムについていま概略を述べるならば、それは私たちの心臓が、生涯にわたって休まずに活動を続けるために必須のものである。過酷な重労働を強いられる心臓は、必然的に多くのエネルギーを消費する一方で、エネルギーとともに産生される活性酸素という猛毒を浴びつづけている。それは心臓にとっては致命的なダメージとなるはずだが、実際には心臓が活動を停止することがないのは、心臓自身にみずからを癒す能力が備わっているからである。

 心臓にそうした能力があることは、すでに知られていた。いわば「あたりまえ」の知見であった。ところが、ことはそう簡単ではなかった。じつはその能力を発揮するには、心臓は根本的な問題を抱えていた。癒されることなく、死に至ってもおかしくない「つくり」になっていたのである。にもかかわらず、実際には私たちの心臓は死ぬことなく、拍動を刻みつづけている。

 これは大きなミステリーといえる。しかし不思議なことに、この謎に正面から取り組んだ研究はこれまでなかったのである。

 なぜ心臓は死なないでいられるのか? 筆者らの研究グループはその答えを追ってみた。最初はふとした好奇心からであったが、やがてわれわれは驚くべき現象に遭遇した。それは、心臓にこれまで知られていなかったシステムが存在していることを示していた。そして、このシステムを軸に見つめなおすと、心臓はこれまでの描像を覆す姿を現し、再定義されるのである。

虚血性心疾患の治療戦略が変わる

 生物の心臓には、太古からの進化の過程でいつしか、こうしたシステムが宿されていた。しかし、その存在は誰にも気づかれることがなかった。筆者がそれを見いだすことができたのはいくつもの幸運に恵まれたからにほかならないのだが、なぜ自分であったのかと考えたとき、うれしさよりもむしろ、何か大きな存在に導かれているような敬虔な思いが湧いてくる。

 このシステムは今後、創薬において新たなターゲットとなるばかりか、心筋梗塞に代表される虚血性心疾患への治療戦略にも、新たな選択肢を加える可能性がある。その作用は心臓のエネルギー代謝・ポンプ機能・酸素消費など、多岐にわたる活動を精巧にコントロールしていることが明らかになったからである。

 本書によって読者に、心臓についての認識を新たにしていただき、生体というものの不思議さ・複雑さ・巧妙さについて知っていただければ、執筆の目的は果たされたと考えたい。

 なお、心臓にかかわる生理学的現象はきわめて複雑であり、あまり細かいレベルの話をすると全体像を見失いかねない。そのため、まだ確定してはいない事柄も、あえて断定的に記述した箇所もあることをご容赦いただきたい。

(*柿沼教授のインタビューはこちら→)

著者 柿沼由彦(かきぬま・よしひこ) 
一九六二年東京生まれ。千葉大学医学部卒業。筑波大学大学院医学研究科修了。医師、医学博士。Vanderbilt University Medical Center Research Fellow(米国)、日本学術振興会特別研究員、理化学研究所脳科学総合研究センター研究員、高知大学医学部准教授を経て、現在、日本医科大学生体統御科学分野大学院教授。二〇〇九年、心筋細胞みずからがアセチルコリンを産生する非神経性心筋コリン作働系(NNCCS)を発見。二〇一三年、NNCCS機能亢進マウスによる心筋虚血耐性機構を動物モデルで報告し、現在このモデルを使って、心臓から脳にはたらきかける制御機構について研究を行っている。二〇一〇年、Ed Yellin Award受賞。
 
『心臓の力』
休めない臓器はなぜ「それ」を宿したのか

柿沼由彦=著

発行年月日: 2015/08/20
ページ数: 224
シリーズ通巻番号: B1929

定価:本体  900円(税別)
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(前書きおよび著者情報は初版刊行時点のものです)