子どもたちの太平洋戦争
〜そして彼らは手榴弾を握った

【戦後70年特別企画】戦時の『少年倶楽部』をよむ

<沖縄の戦線では、諸君と同じ年ごろの少年が、手に手にこの手榴弾をにぎって敵中に突撃した。われらも今から訓練をして、本土決戦にそなへよう>(1945年7月号より)

総力戦となった太平洋戦争、子どもたちはいかにして戦争に組み込まれていったのか。それを知るための、貴重な資料がある。

『少年倶楽部』。1914年に創刊され(発行元は大日本雄弁会、現・講談社)、田河水泡の『のらくろ』、島田啓三の『冒険ダン吉』などの人気連載を持ち、吉川英治や大佛次郎らが執筆、最盛期には発行部数70万部を誇った少年雑誌だ(62年に廃刊)。その影響力の大きさゆえに、戦時中は軍部が誌面づくりに介入し、軍事色の強い雑誌となった。

戦時下の『少年倶楽部』を開き、その時々の特集・連載・企画を見ることで、少年たちの戦争を追ってみたい。

太平洋戦争開戦。日本の「快進撃」が少年の心を鼓舞した

真珠湾攻撃の直後に発売された42年2月号。大特集は『戦い抜こう大東亜戦』

日中戦争が始まった1931年から、『少年倶楽部』は徐々に軍事色を強めていくが、急速に加速するのは、太平洋戦争が開戦した41年12月からだ。『戦い抜こう大東亜戦』との勇ましいキャッチが躍る表紙の42年2月号の特集は「ハワイ真珠湾軍港襲撃成功セリ」。日本の強さを訴えることで、子どもたちを戦争の世界へと引き込んでいく。

少年たちに日本の強さをアピールするだけではない。「この戦争は大人だけが戦うのではない。君たちも率先して協力しなければならない」と教え込む。同2月号には、<進め 僕等も 進軍だ>を連呼する「詩」も掲載されている。

開戦後、東南アジアに進軍し、数ヵ月間は「快進撃」を続けた日本。42年3月号では、東南アジアの子どもたちを「お友だち」と呼んで、彼らが懸命に日本語を勉強中だ、というエピソードが紹介されている。軍部は「東南アジア解放のための聖戦だ。現地民は進駐を歓迎している」と訴えたかったのだろう。

「新しくお友達になった南の島々の少年たち」

同年5月号に掲載された「ほがらか王(ワン)くん」(満州が舞台。中国人の兄弟が主人公の漫画)でも、満州での日本軍の「歓迎ぶり」が描かれている。

東南アジアに「支配権」を築き上げた後、『少年倶楽部』は子どもたちにこう訴える。「みなさんは大東亜共栄圏の指導者となるのだ」、と(42年6月号)。

しかし勇ましいのはここまでだった。戦況が苦しくなっていくのに並行して、次第に少年たちにも負担や苦痛、覚悟を強いるようになる。『少年倶楽部』は「激戦時代」に突入する。