ロシア
ソ連将校によるレイプ、満州での飢餓 作家・澤地久枝「記憶の底に押し殺していた戦争体験。すべてを話しましょう」
【戦後70年特別企画】
「軍国少女」だった過去を初めて明かした澤地氏

 戦争は、私が少女であることを許さなかった

幼いころから戦争が終わるまで、私は満州にいました。そのころ常に考えていたのは、「もっと戦争のために、自分ができることはないのか」ということ。〈欲しがりません勝つまでは〉をたたきこまれた軍国少女は、「どんなにひもじくても、食事のときは子供茶碗一膳しか食べない」という決まりを自発的に守っていました。

そのうえに配給制がはじまり、子どもたちはどんどん栄養不足になる。弟は脳脊髄膜炎になり、私も妹も猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり、生死の境をさまよいました。全身の皮膚がずるむけになってね。痛くって痛くって……。

栄養失調で死ぬ人を何人も見ましたね。特に、満州から日本に引き揚げるまでの難民生活の中では、いくつ子どもの死体を見たか、わかりません。お墓をつくる余裕もないから、枯れ木みたいになった死体を裏山の穴に捨てるのです。

そんな環境で生きるなかで、私の生理は止まりました。戦争は、一人の少女が少女であることさえ許さなかったのです。

1930年生まれ、『妻たちの二・二六事件』『昭和史のおんな』などの著書のあるノンフィクション作家の澤地久枝氏(84歳)が、満州での戦中体験をつづった『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(集英社新書)を上梓した。困窮を極めた戦中の生活について、そしてソ連兵に犯されそうになったことをはじめとする壮絶な体験がつづられている。

「戦争」と「昭和」をテーマに執筆を続け、平和運動にもかかわってきた澤地氏だが、これまで自身の戦争体験について明かしたことはなかった。「恥ずかしくて、戦争中の体験は隠して生きてきた」という澤地氏が、なぜ今になって過去を語り始めたのか。

私は14歳の時に敗戦を迎えましたが、それまでは一点の疑いもなく日本の勝利を信じていた「軍国少女」でした。そのことが恥ずかしくて、いままでずっと戦争中の体験は隠して生きてきました。

いま、そのことを強く悔やんでいます。

私は日本がもう一度戦争を引き起こす、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという危機感を感じています。なぜ平和を愛したこの国が、再び危うい方向に向かおうとしているのか。それを考えた時に、私たちの世代が抽象的な言葉、たとえば「戦争はつらかった」「苦しかった」というような言葉でしか、戦争を語ってこなかったからではないかと思ったのです。

抽象的な言葉では、もう若い世代には伝わらない。だから、私たちはなるべく具体的に細やかに、戦争体験を語っていかなければならないのです。たとえそれが、つらい記憶を掘り起こす苦しい作業であっても――。