現代新書

誰も本気で米国と戦争するなんて思ってなかった〜「壁新聞」が伝えた開戦間際の「日米友好」

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』3
井上 寿一

写真壁新聞のなかの日米友好関係

戦時色が強くなるなかで、写真壁新聞は不思議な平穏さを伝える記事がつづいている。それは日米関係だった。

写真壁新聞においてもっとも早い時期に現われた日米関係に関するニュースは、1936(昭和11)年1月15日号の「クリスマスと新年の挨拶を送る会」である。ワシントンのホテルで開かれたこのパーティには、各国大使の家族のひとりとして、斎藤(博)駐米大使の令嬢が和服姿で出席していた。

この年のアメリカの独立記念日には、「従来の儀礼的メッセージ交換を避けて日米両国・芸術の交換放送を行った」という。7月6日号の写真はマイクの前で「お江戸日本橋を唄う・三浦環」である。同月17日号は、アメリカの女性ハイスクール教員が日本の小中学校を視察した際の写真を掲載している。

日中全面戦争がはじまっても、写真壁新聞の対米感情に変化はない。たとえば1938(昭和13)年7月10日号は、「紺碧の空に颯爽と/米国飛行界の人気者エーア・ガール達」との見出しで、「お客様のサービスも満点」というTWA航空の女性客室乗務員の集合写真を掲載している。

日中戦争下の日米友好の演出は、1939(昭和14)年の米艦アストリア号の訪日となる。アストリア号は、同年2月にワシントンで客死した斎藤前駐米大使の遺骨の移送を任務としていた。

写真壁新聞「友誼の護送軍艦/斎藤前大使の遺骨を故国へ」(3月10日号)は、アメリカ側の決定を伝える。写真は「ルーズベルト米大統領の友誼の申出に依り逝去した斎藤前駐米大使の遺骨を故国日本に護送する」アストリア号である。4月に横浜港に到着したアストリア号を歓迎するセレモニーと斎藤の葬儀は、日米友好を訴求する機会となった。

靖国神社を訪れるアストリア号乗組員(同盟通信写真ニュース1939年4月21日号)

写真壁新聞も4月16日号で「儀礼艦木曽の礼砲に迎えられ/喪の礼送艦〝ア号〟横浜埠頭へ」と報じている。また4月21日号の記事「異国の戦友の霊に捧ぐ最敬礼/礼送艦ア号乗組員靖国神社へ」は、15台の木炭バスに分乗して、宮城から靖国神社に向い、「異国の戦友の霊に対し敬虔な最敬礼を捧げた」多数のアストリア号乗組員の写真を掲載している。

ハリウッド女優と「三勇士」

写真壁新聞は、豊かな大衆消費社会を享受する国としてアメリカの姿を伝えることが多かった。そのアメリカを象徴するのは、ブロンドのハリウッド女優たちである。

水着姿のハリウッド女優(同盟通信写真ニュース1938年7月31日号)

たとえば1938(昭和13)年7月31日号の写真は、三人の水着姿のハリウッド女優である。「紺碧の真夏の海に/戯れる艶麗な肉弾美人」と題する記事には、「肉弾三勇士を気取ったわけじゃないでしょうが花火をかつぎ出したワーナー・ブラザースの新進女優、さあ!!火がついたら一体どんなことになったでしょうか」とある。

上海事変(1932〈昭和7〉年)の際の「肉弾三勇士」とハリウッド女優を同列に扱うこの記事は、親近感よりも両国の置かれている立場のちがいを際立たせることになったのではないか。

日米友好の演出は、1941(昭和16)年になってもつづく。「緊迫せる華府(ワシントン)で/今年も盛大な桜まつり」の見出しの記事(5月8日号)は、桜の女王に選ばれた女性の写真の説明である。

「戦火乱れとび援英か参戦かの岐路に立つ米国ワシントンのポトマック河畔には日米親善の象徴として贈られた大和桜が国際情勢をよそに今年も美事に咲き揃い、参戦にいきり立つ米国人の心を和げている」。

ここではアメリカが第二次欧州大戦に参戦するか否かを「岐路」と表現している。日米が戦争に至ることは想定されていない。日本国民は、この段階においても、対米戦争不可避と認識していたわけではなかった。