現代新書

誰も本気で米国と戦争するなんて思ってなかった〜「壁新聞」が伝えた開戦間際の「日米友好」

【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』3
井上 寿一

二・二六事件

二・二六事件

状況は暗転する。総選挙の6日後、二・二六事件が勃発したからである。写真壁新聞は、28日付で襲撃された政府要人、岡田首相や高橋蔵相など六名の顔写真を報じている。

写真壁新聞に事件への同情はなかった。

3月2日号は「厳然たり戒厳司令部」の見出しで、戒厳司令部の建物の写真とともに、「反乱部隊は午後二時頃全部帰順を終り茲(ここ)に全く鎮静をみるに至れり」との29日の戒厳司令部発表を掲げている。

3月18日号の「任務を果して/甲府・佐倉部隊帰還」は、「文字通り不眠不休・不安な帝都の護りを固めてきた上京部隊」の帰還をねぎらう内容である。同日の別の写真は「殉職五警官合同葬」として、「二月二十六日事件に際して首相官邸、蔵相官邸等にて壮烈な殉職を遂げた五警官の合同警視庁葬」を執りおこなう築地本願寺の様子を伝えている。

日中全面戦争の勃発

二・二六事件は3日間で鎮圧された。しかしそのさきにあったのは政党政治の復活ではなかった。実際に鎮圧した陸軍が政治勢力として台頭したからである。

政党と軍部とのあいだにあって、国民は迷った。その国民を救ったのが近衛文麿である。写真壁新聞は近衛を追う。1937(昭和12)年4月9日号は、林(銑十郎)首相が次期首相候補としての近衛を訪問した際の両名の写真である。近衛の首相就任は、写真壁新聞もいち早く報じている。6月4日の「青年宰相と熱血翰長」は、組閣を急ぐ和服姿の近衛の写真である。

ところが組閣の翌月、日中全面戦争が勃発する。写真壁新聞にも戦時色が強くなっていく。翌々年3月8日号は、「国防色の制服に身を固め」て、日比谷公園広場から二重橋広場に「日の丸行進」をする愛国婦人会部隊5万人を報じている。3月12日号によれば、この年の陸軍記念日に「帝都はカーキ一色の祝賀行事」となった。

1937(昭和12)年12月の首都南京の陥落にもかかわらず、戦争は終わらなかった。写真壁新聞は「連戦連勝」を報じていただけではない。1938(昭和13)年9月7日号は「飯塚部隊長遂に壮烈な戦死を遂ぐ」として、「敵大軍の必死の抵抗陣に遮二無二肉弾突撃を続ける我が果敢極る挺身部隊」の姿を伝える。日本側も大きな犠牲をともなう困難な戦争を闘っている。このイメージが間接的にわかるような記事の説明文になっている。