現代新書
「事変不拡大」を模索した近衛文麿は、なぜ「日中戦争の泥沼化」を止められなかったのか
【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』1
戦前、国民的な人気を博していた近衛文麿はラジオが作ったカリスマだった〔photo〕Getty Images

国家と国民が一体となって戦争を遂行する。そこには国家と国民を直接、結びつける多様なメディアの発達があった。そして、メディアは近衛文麿というカリスマを作っていく……。

なぜ、この国は戦争をエスカレートさせていったのか? メディアは戦前の社会をどう変えたか? 井上寿一『戦前昭和の社会 1926-1945』より「Ⅳ章 カリスマ待望と戦争」を特別公開(全4回)。


ラジオと戦争

ラジオのカリスマ・近衛文麿

近衛文麿はラジオが作ったカリスマである。

近衛の伝記は、近衛が国民的な人気を博していたことをつぎのように表現している。

一般の人気は湧く様であった。五摂家の筆頭である青年貴族の近衛が、総理大臣になったということが、何かしら新鮮な感じを国民に与えたのだ。……近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで、「近衛さんが演説する」といって、大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有様だった(矢部貞治編著『近衛文麿 上巻』)。

近衛は自己の印象操作のために、ラジオを巧みに利用した。首相の親任式の直後から、近衛はラジオをとおして直接、国民に訴え、あるいは語りかけた。1937(昭和12)年6月4日は「親任式を終えて」、盧溝橋事件後の7月27日は「政府の所信」、9月5日は「政府の所信について(帝国政府の決意)」というように、重要な演説はラジオをとおしておこなっている。

ラジオによる印象操作

近衛のラジオ放送の何が国民を魅了したのか。以下では最初に、首相就任直後のラジオ演説の内容を検討する(近衛文麿『戦時下の国民におくる近衛首相演説集』より。以下、ラジオ放送部分は同書)。

近衛は組閣のその夜(6月4日)、ラジオ放送をおこなう。首相のラジオ放送はこれが歴史上、はじめてだった。

近衛が訴えたのは、国民の一致した協力である。「この重大な時局を乗切るためには、どうしても各方面の相剋摩擦の緩和に重点を置き、真に挙国一致の協力によってやって行かなければならぬと思うのであります」。

つぎに近衛は基本的な考えを明らかにする。「対外関係としては、飽くまで国際正義に則り、対内関係と致しましては、社会正義に即して、国家の発展、国民の幸福を図ることは私の真に望むところであり、総(すべ)てこれを基(もとい)として諸般の政策を樹て、これが遂行を期したいと思います」。

要するに近衛の政策の基本目標は、「国際正義」による国家間関係の対等性と「社会正義」による国内社会の平等性の追求だった。

近衛はヒトラーやムッソリーニのように雄弁を奮って国民を煽動する必要がなかった。あらかじめカリスマになることが決まっていたからである。

保存されている音源から実際に近衛の演説を聞いてみる(「新東亜建設と国民の覚悟」『学術研究用デジタル音源集』)。言葉は明瞭である。アナウンサーが読んでいるように聞こえる。速度はゆっくりだ。口調は平板である。官僚の原稿を棒読みする閣僚の演説に似ている。この演説がなぜ国民の共感を呼んだのかわからない。感情移入のしにくい演説である。

それにもかかわらず、老若男女、資本家も労働者も、地主も農民も、軍部も政党も、国家主義者も自由主義者も、誰もが近衛の登場を歓迎した。「私は各方面の御協力と支持を得たい」。近衛の願いはそのとおりになった。

近衛はラジオによる印象操作を外国(とくにアメリカ)にも向けた。近衛の長男文隆(ふみたか)は当時、プリンストン大学に留学中だった。文隆は6月15日、NBC放送のラジオインタビューに答えて、父文麿を語っている。

「父は如何なる時でも子供を叱ったことはありません、いつもその時は黙っていて、後になってから誰か適当な人を通じてあの場合には斯くすべきであったと柔かに諭してくれます」(『東京朝日新聞』1937〈昭和12〉年6月17日)。

ここでは日本的な家父長制の下の父文麿ではなく、リベラルでモダンな、新しいタイプの父親像が演出されている。日本の国民はこのニュースを日本の新聞で知った。さきのラジオ演説で「日本精神」を強調した近衛は、他方で欧米的な洗練されたイメージを国民に与えた。