「人の死を悲しいと思えない自分が怖かった」97歳、吉沢久子が語る戦時下の女性と暮らし
【戦後70年特別企画】
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家事評論家の吉沢久子さん(97)は70年前、東京・阿佐ヶ谷で戦争を体験した。27歳当時、フリーの速記者をしていた吉沢さんは、務め先のない者は軍需工場で働かなければならないという風評が流れていたため、知り合いの紹介で鉄道教科書会社に入社した。同時に、当時助手をしていた文芸評論家の古谷綱武氏に家の留守番と、戦時中の東京の記録を残しておいてほしいと頼まれ、戦時中の市民の生活を日記という形で綴っている。

27歳の働く女性は戦時中、何を想い、どんな生活をしていたのか。戦後70年を経たいま、吉沢さんは何を想うのか。当時の日記を紐解きながら、吉沢さんに話を聞いた。

生きるために自己主張はしない

戦争は二度と嫌です。昨日ごはんを一緒に食べた人が家と一緒に焼かれてしまったり、戦地に赴いた人の死を知らされたり、そういうことが当たり前になって、人が亡くなることを悲しいと思えなくなってしまうんです。

毎日自分が住んでいる街が破壊されて、その中で暮らしていると、人の死を悼んだり嘆いたりする前に、「ああ、明日は自分が死ぬかもしれない」という思いが湧いてきて、それをただ受け入れるしかないんですね。自己防衛のために感情を押し殺していたのかもしれないけれど、そういう無感動な自分が怖くなりました。

とにかく私たちが体験した戦争は、その状況になってしまったら一市民はどうすることもできないんです。左翼の人たちが捕まって拷問されていたことも知っていましたし、戦争に反対だなんて言ったら殺されてしまいますから。

薦められた本を探しにいって本屋で題名を伝えたら、「そんなものを読むんじゃない」と怒られることもよくありました。そこらじゅうにスパイがいるから、自由に本も読めないし、世の中はピリピリしていましたね。

戦争をしていることを不思議に思うこともなく、抵抗することもなく、ただただこの環境のなかで明日どうやったら生きられるかを考えていたように思います。

女は銃後を守れと言われていましたが、東京だって空襲のある戦地でしたから、女も戦っていました。私が住んでいた阿佐ヶ谷も焼けたところがあり、いつ自分が死ぬかかわらない状況でしたから。

竹棒の先を鋭く削って、アメリカ兵が来たらこれでつつくんだと女も訓練をしていました。あとは、焼夷弾による火を消すためにバケツリレーの練習もしていましたね。この訓練で戦争に勝てるとは思えませんでしたが、そんなことを口に出す人は一人としていませんでした。

なかには、自分の命より自分の意思を守ろうと戦争に反対した人もいましたが、どこにいったかわからなかったとか。疑問に思ったら命が危ない。それが頭でわかっていたから私たち市民は、感情を抑えて、そのうちに無感動になってしまったのかもしれません。生きるために自己主張はしなかったんです。