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戦争の有名人 その子孫たちは「いま」【第1部】
東條英機 松岡洋右 廣田弘毅……
「戦犯の家族」と呼ばれてその名前を恨んだこともありました

週刊現代 プロフィール

「東京裁判の内容に関して、改めて語る気はありません。外務大臣として責任があったといえば、それはその通りです。もっとも、当時は大陸の兵隊が外務大臣の言葉におとなしく従うような時代ではなかったというのは事実でしょう」

弘太郎氏は5歳の時に北京で終戦を迎えた。弘毅の長男で弘太郎氏の父にあたる弘雄氏は横浜正金銀行(東京銀行の前身)の北京駐在員だったが、終戦時は北支派遣軍の二等兵として山西省にいた。一家は'46年の3月に引き揚げ船に乗り、山口県の仙崎港に戻ってきた。

「東京の原宿に家があったのですが、空襲で焼けてしまっているだろうということで、別荘のあった神奈川県の鵠沼に向かいました。別荘には留守番の者がいて、一族は練馬のほうにいるということがわかり、同時に祖父が検束されて巣鴨にいることも知ったのです。

家族は祖父の戦前の活動を知っているので、まさか戦犯として逮捕されているとは思ってもいませんでした。祖父自身も意外だったと思います」

「孫同士は仲良くしよう」

外交官の弘毅、銀行員として海外での駐在も多かった弘雄氏の影響を受けて、弘太郎氏も幼い頃から世界を舞台にした仕事がしたいという思いがあった。

「祖父と同じく外交官の道も考えましたが、大学が慶應だったので民間のほうがいいだろうということで、三菱商事に就職しました」

三菱商事では航空機部に所属し、ロサンゼルスやシアトルにも駐在。最初は戦闘機などの輸入の仕事が中心だったが、その後、ゼロ戦の技術の継承者たちの奮闘もあり、三菱重工のMUのような飛行機を作って輸出するまでになった。

かつて祖父を裁き、死を宣告した戦勝国で働くことに複雑な思いもあったのではないか?

「私がつきあった普通のアメリカ人たちは祖父のことをよく知りませんでしたし、私も家系のことは話さなかった。一般的なアメリカ人にとって、軍人や官僚、天皇も含めて日本人は皆、不当にもアメリカに戦争を挑んできた連中というくらいの認識ですから。

それでも真珠湾攻撃を『ずるいだまし討ち』だと言われた時には、論争をしたことはあります。日本軍は基地を叩いただけで、隣のホノルルは攻撃しなかったのに、米軍は東京や広島の街を火の海にしたのですからね」

弘太郎氏は、あえて声高に祖父の名誉回復を訴える気はないという。だが、靖国神社に祖父が合祀されていることには違和感を覚えるという。