週刊現代
鶴見俊輔が戦場で味わった「恐怖」と戦後に下した「決断」
「敵を殺せ」と命令されたら、あなたはどうする?

受け継がれた「殺すな」の声

〔PHOTO〕gettyimages

鶴見俊輔さんが戦地で味わった恐怖

哲学者の鶴見俊輔さんが亡くなった。93歳だった。

「安保の夏」に逝くなんて、もっと生きていてほしかった。鶴見さんが何かあったら発言してくれる。そう思うだけで、心強い気持ちになれたのに……。

あれこれ感慨にふけっていたら「SEALDsKANSAI」のメンバーである塩田潤さん(24歳・神戸大大学院生)の「鶴見さんたちの存在があるから僕たちがある」というコメントが朝日新聞に載った。

さすがSEALDsの一員である。鶴見さんという「どんな教条からも自由な知性」(社会学者の上野千鶴子さんの言葉)が耕した土壌があるから、彼らの反安保運動が広がるのだとちゃんと分かっている。

では、なぜ鶴見さんは戦後を代表する思索者になったのだろう。その理由は『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二の共著・新曜社刊)で余すところなく語られている。

祖父は戦前の有力政治家・後藤新平。父はベストセラー作家で代議士。鶴見さんはそんな名家に生まれながら母のしつけの厳しさに反発し、少年時代から放蕩と自殺未遂を繰り返した。

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15歳で渡米。ハーバード大で言語学や哲学を学び、19歳のとき、日米開戦で収容所入りか帰国かの選択を迫られた。

日本は〈すぐにも負ける〉。米国のほうが〈いくらかでも正しいと思ったんだけど、勝ったアメリカにくっついて、英語を話して日本に帰ってくる自分なんて耐えられない〉と帰国した。

結核を病んだままジャカルタの海軍武官府に送られ、敵側の短波放送の翻訳に従事した。

ちょっとした厭戦気分を漏らしただけで憲兵に密告される時代である。自分の反戦思想を周囲に悟られはせぬかと緊張のし通しで、余計なことは一切しゃべらぬようにしていたと鶴見さんは回想し、こう述べている。

〈みんな「鬼畜米英を殺せ」とか言って、日本が勝つと思っている。そのあいだに一人置かれると、ものすごい恐怖なんだ。日本人そのものが怖い。/だから当時は、上官と話していると、私としては自分の内面を一生懸命にごまかしているから、チックみたいな症状が起こって、手をズボンにこすりつけるのがやまないんだ。白い服を着ていると、汚れて黒くなるんだよ。もう、たいへんな恐怖だった〉