【甲子園特別企画】
98年横浜高校の夏
松坂大輔の恩師が明かす 伝説の一戦『横浜×PL』の舞台裏

横浜高校時代の松坂大輔とともに写る小倉清一郎元部長

甲子園で繰り広げられる、奇跡としか呼びようのない激闘。人々に感動を与えるそんな試合を、同じ大会中に三度も演出したチームがある。98年の横浜高校だ。

延長15回を戦い、死闘を制した準々決勝のPL学園戦、劇的な逆転勝ちを収めた準決勝の明徳義塾戦、そして怪物・松坂大輔がノーヒットノーランを達成した、決勝の京都成章戦。いまもファンの脳裏に焼き付いているこの3試合の知られざる秘話を、横浜高校野球部を23年間にわたって指導してきた小倉清一郎・元部長が明かす。

その日は、ほぼ寝ていなかった

1998年8月20日、夏の甲子園準々決勝。横浜(東神奈川)はPL学園(南大阪)と対戦した。両校とも今大会初の第1試合だった。私は選手に、「試合の4時間前には起きろ」といつも言っている。その日も、8時30分の試合開始に合わせ、4時半に起床させた。

宿舎の前にある護国神社で、恒例の必勝祈願をしてから移動のバスに乗り込む。選手たちは車中でパン、バナナ、牛乳などの朝食を眠そうに口にしていたが、私はもっと眠かった。実は前夜、夜中の2時まで大阪・新地で飲んでいたからである。

PL学園を綿密に分析した「小倉メモ」は、前日にある程度は作成しておいたものの、宿舎の住之江ホテル阪神に戻ってから完成させた。選手には朝、ホテルのロビーで手渡した。ほぼ徹夜だった。8時の時点で、気温はすでに28度。

今日は暑くなりそうだ――。そう思ったのを覚えている。

波乱の幕開け

横浜は同年春のセンバツ大会で優勝。春夏連覇を狙っていた。試合の焦点は、横浜のエース・松坂大輔(3年)が、PL打線をいかに抑えるか、だった。松坂の実力は、私が一番よく知っている。いかに強力なPL打線といえども、簡単に打ち崩されるはずはないと自信を持っていた。

しかし、予想に反して、試合は序盤からPLペースで進んだ。

二回裏、PLの先頭打者の5番・大西宏明(3年=元近鉄)が、カーブを待っていたかのように振りぬき、松坂の足元を抜いて二遊間を破るヒット。その後、一死二、三塁となり、8番の稲田学(3年)がまたもやカーブを狙い打ち。これがセンターへの犠飛となり、いとも簡単に先制点を奪われた。続く9番の松丸文政(3年)には、直球をセンター越えの適時二塁打。これが松丸の甲子園初安打だった。

「おかしいな」

私の中でかすかな疑問が湧いた。松坂・小山良男(3年=元中日)のバッテリーも、なぜ打たれるのかわからなかったのだろう。明らかに動揺していた。