「毒の魔力」に屈した女 
医学的な視点で「あの事件」を追う長編小説

【書評】帚木蓬生『悲素』/評者 久坂部羊
〔photo〕iStock

本書は1998年に発生した和歌山毒物カレー事件の捜査に取材した小説である。主人公は九州大学医学部の衛生学教授。参考文献からもわかる通り、実在の人物がモデルである。

出だしから緊迫した描写に引き込まれる。被害者の症状や死因に、専門家ならではの目が注がれ、内部資料に基づく事実が次々と明らかになる。犯人の知らないところで着々と進められる緻密な医学的追究と容疑固めは、実にスリリングだ。

それにしても、恐ろしいのは、容疑者「小林真由美」の果てしない保険金詐取の闇だ。次々と高額の保険を周囲の人間に掛けては、ヒ素と睡眠薬で殺害を企む。1億4千万円の保険金を受け取った実母の死にも疑惑があるというのだから、言葉を失う。

だが、カレー事件については動機が不明だ。「真由美」は事件の前に夫を含む複数の知人に新たな保険をかけ、カレーで皆殺しを図った可能性が指摘されるが、彼女がヒ素を混入したのは、夫たちが夏祭りへの不参加を決めたあとだ。それでも犯行に及んだのは、ヒ素という秘毒を盛る「嗜癖の魔力」に、彼女があらがえなかったからだと著者は推理する。おそらくそれは本人にも自覚できない病態であっただろうと。

本書は医学の力で犯罪をあぶり出そうとする主人公の活躍を描いた知的エンタテイメントである。あくまで事実に依拠した描写は、派手な展開はないものの、ボディブローのように事件の恐ろしさを読者の胸に叩き込む。

毒殺の歴史や、第一次世界大戦の毒ガス攻撃、九大生体解剖事件、松本サリン事件などへの言及も興味深い。さらに540ページを越える長編でありながら、一度も「私」という一人称を使わない文体の技巧にも唸らされる。

ただし、本作がいかにリアルな描写にあふれていても、小説であることを忘れてはならないだろう。知的興奮のあとに、底知れない恐怖が湧き上がるとしても、真実の奥深い闇は、だれの手も届かないものであるかもしれないのだから。

くさかべ・よう/外務省医務官等を経て『廃用身』でデビュー。『悪医』で日本医療小説大賞受賞。『いつか、あなたも』他

悲素
著者:帚木蓬生 新潮社:2000円
ははきぎ・ほうせい/'47年生まれ。精神科医でもある。『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、『逃亡』で柴田錬三郎賞受賞

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「週刊現代」2015年8月8日号より


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