命がけの修行を経た大阿闍梨が大切にしている「日々の習慣」
塩沼亮潤さんインタビュー【第2回】
慎泰俊さんと塩沼亮潤さん

慎泰俊さんがプロフェッショナルたちの仕事の流儀に迫る本連載、今回は慈眼寺住職の塩沼亮潤大阿闍梨の登場です。往復48キロの山道を1000日間歩き続ける修行「大峰千日回峰行」を満行した塩沼亮潤さん。修行を通じて、自己を顧みる心と感謝の念を得たと言います。現在は、大阿闍梨として全国各地、世界中を飛び回って教えを説きながら、仙台に開山した慈眼寺の住職を務めています。 第2回は、修行を終えて慈眼寺を開山してから、日々の習慣や情熱の源泉についてお話を聞きました。(写真・齊藤優作/構成・徳瑠里香)

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山の行と里の行、毎日が修行

慎泰俊(以下、慎): 私は、起業家という側面からも塩沼さんから学べるものがあると思っています。塩沼さんは、山の修行を終えて、仙台の福聚山に慈眼寺を開山されました。こんなに立派なお寺をゼロから創立するというのは、難易度の高さがすさまじい仕事だと思うんです。しかも、以前お会いしたときにお伺いしましたが、塩沼さんは自分からみなさんにお願いをしてお布施を集めるということを一切されていない。

塩沼亮潤(以下、塩沼): ああ、私はお坊さんをしていなかったら会社を経営していただろう、と言われることがありますね。山の修行から里に戻ってきて、何もないところからお寺を建てて軌道に乗せるまでは本当に大変でした。慈眼寺を開山するにあたって、檀家さんもなければお葬式もやりませんから資金を工面するのはなかなか大変でした。これは私の考え方なのですがお供えというものは、強要するものではないし、喜捨(きしゃ)でなければならないと思い、ご縁を大切にここまできました。

慎: 以前慈眼寺にお伺いしたときに、塩沼さんは「山の行で学ぶことは大学で理論を学ぶようなもので、山での修行と里の生活では開きがある」とおっしゃっていました。そのことについて、今日塩沼さんとお会いするまでの半年間考え続けてきたんです。私自身もウルトラマラソンでしんどい思いをしているときは、心の底から素直な気持ちになれますし、自分の小ささが身にしみて思いあがることもなくなるんですね。11月・12月の日本海側を大雨に打たれながら走っていると、自分のことだけを考えて生きてはいけないな、と思うんです。でも、その気持ちのまま普段の生活を送り続けられるかというとそうではなく、時間が経つにつれ、走っているときに学んだことを忘れていってしまいます。

塩沼: 「山の行より里の行」という言葉がありますが、どんなに厳しい修行を経ても、そこで得たことを日々の暮らしに生かしていかなければ意味がありません。とは言っても、山での修行と里の生活は、ずいぶん異なります。山では、屋根もなくて塀もなく、雨が降れば雨、風が吹けば風を感じるという厳しい状況です。一方、仙台の里では台風や雷は家の中で避難できますが、生活のなかでいろんな人とコミュニケーションをとっていかなければなりません。山の行では一人で決められたことをただひたすら精一杯積み重ねていけば丸をもらえます。しかし、里の行は一人ではありません。

いろいろな人と調和をとっていくことが里の行なんです。そういったことも含めて、山の行も里の行も特徴が違うだけで同じ行なんですね。毎日毎日が、人生という修行の積み重ねです。