賢者の知恵
2015年07月22日(水) 黒木 亮

本当に救国の英雄だったのか?
東電・吉田昌郎元所長を「総括」する

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吉田昌郎・元福島第一原発所長

東京電力福島第一原発の所長だった故・吉田昌郎氏は、官邸にいた東電武黒フェロー(元副社長)からの命令を無視して、独断で原子炉への海水注入を継続し、脚光を浴びた。

親分肌の人柄や、首相や東電本店にも物怖じしない豪胆さも相まって、一躍「英雄」になった。一方で、彼を神格化し、一言半句の批判も許さない国民の熱狂ぶりには違和感を覚えた。

私は、今般上梓した『ザ・原発所長』の中で、彼の生い立ちと人間形成の過程を明らかにし、功罪を論じるための材料を読者に提供したいと考えた。

 

子供の頃から親分肌

メディアで報道されている吉田氏の経歴は大阪教育大学附属高校天王寺校舎以降である。私はツテを辿って、幼少時を知る人々に会って話を聞いた。

彼は、菓子・人形・紙器などの商店や問屋が軒を連ねる大阪の松屋町筋に近い中央区瓦屋町の出で、金甌(きんおう)小学校(現在は統合され、大阪市立中央小学校)に通っていた。明治6年に開校された小さな小学校で、生徒は瓦屋町の商売人の子弟が大半である。

吉田氏の父親は、新商品や営業のアイデアを企業に提供する企画会社「パープルライト」を経営し、のちに六甲山の水を使った飲料水をプロデュースするなど、事業は順調だった。自宅は、金甌小学校のすぐそばの「オートセンタービル」のモダンな公団住宅の最上階で、部屋には当時の金持ちの子弟の象徴であるレーシングカーがあった。

両親は一人息子の教育には並々ならぬ力を入れ、当時は珍しい家庭教師も付けていた。吉田少年は、勉強が非常にでき、また親分肌で、我が強い面もあったという。

吉田氏が子供時代に遊んだ高津神社

豊かなコミュニケーション能力や、組織や社会への忠誠心、大人になってからの仕事へ厳しさなどは、瓦屋町の文化である「商家の躾」によるものだろう。(ちなみに作家の開高健がこの近くの出で、著作に吉田氏が子供時代に遊んだ高津神社などが出てくる。)

その後、吉田氏は大阪教育大学附属天王寺中学校、同高校に進んだ。同校は関西地区でも屈指の難関校だが、受験勉強をまったくさせずに、生徒の自由な発想と議論する力を伸ばすというユニークな教育方針を追求している。

同校OBにはiPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥氏がおり、吉田氏の同学年には村上世彰氏の兄の村上世博氏(元三菱商事勤務)がいた。

同級生によると吉田氏がバンカラに振る舞うのは、一人っ子でお坊ちゃんに見られることへの反発があったのではないかという。

また吉田氏は仏教に造詣が深く、高校時代から般若心経をそらんじ、旅先では必ずその地の寺を訪れるほどだったが、仏教への興味は、中学・高校が寺田町という、その名の通りお寺が多い地区にあったことと無縁ではないだろう。

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