雑誌 週刊現代
「戦後50年決議」をめぐる右派団体「日本会議」の暗躍
そして戦後70年の今、彼らは何をしようとしているか?
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「侵略戦争と認めるなど断じてできない」

かつて「参院の法王」と呼ばれた村上正邦さん(82歳)は面白い人である。幼いころから筑豊の炭鉱で苦労してきたせいか、人情味があって懐が深い。政治信条は筋金入りの右派なのだが、主義主張の違いを超えて人を惹きつける何かがある。

前に少し触れたが、私は8年前、彼のライフヒストリーを1年がかりで聞き取り取材した。彼の人生は波乱とペーソスに満ちていて、話を聞くたび私は泣いたり笑ったりしたものだが、ここでは中でも一番驚かされたエピソードをご紹介したい。

1995年、自社さ連立内閣時代のことである。村山首相は戦後50年決議の採択を目指していた。が、連立相手の自民党は決議推進派と慎重派に分かれていた。

慎重派を後押ししたのが、椛島(かばしま)有三氏が率いる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」('97年に両組織が合併して「日本会議」になる)である。

「守る会」と「国民会議」は前年4月「終戦50周年国民委員会」を立ち上げ、戦争謝罪決議の反対署名をはじめていた。その年秋には「国民委員会」の呼びかけで各地の県議会などで戦没者追悼の決議が相次いで行われ、翌年3月、「国民委員会」が謝罪決議反対署名506万名分を集めて国会に請願した。

そんな状況下で森喜朗幹事長や加藤紘一政調会長らが何とか与党間の合意を取りつけようと奔走した。村上さんの回想。

「焦点となったのは、決議で先の戦争が侵略戦争だったことを認めるかどうか、そしてアジア諸国に対する植民地支配に言及するかどうかでした。自民党五役は、私を除いて皆決議をやるべしと主張していた。私は侵略戦争だと認めるなんて断じてできないと突っぱねていた」