読書人の雑誌『本』
在宅医療が「日本人の死」を変える!「家で迎える死」のよさとは?
40年以上、死を看取り続けた臨床医が明かす
〔PHOTO〕iStock

家で迎える死

(文・徳永進)

死を看取るという仕事

死を看取るということを仕事にしている。臨床医になったのが1974年だから、もう41年になる。かなり長い。でも飽きることはない。

初めて本を出版したのが1982年、『死の中の笑み』(ゆみる出版)で、第4回の講談社ノンフィクション賞を受賞した。33年も前になる。その時既に、死がテーマになっていた。死とは何か、どういう死が良いか、などを論じることはなかった。目の前に生じた死について、ただ記録し報じた。

死は今も、絶えず生じているが、いつも感服する。不安で、悲しいと思われる死に、受容というより、従容とした態度で入っていく皆に。人も、死も、尊いと思う。

自分で自分を、「臨床医という名のフィールドワーカー」と定義したりする。いろんな死に出会う。人類学の研究者が森に入って、ゴリラの生態や文化を観察するように、臨床に棲息する死を観察した。死に出会うたびに、どんな死で、家族はどう感じていたか、本人はどんな言葉を語ったか、ただ記録してきた。

死、という出来事は大きい。死は、大きなエネルギーの消滅、とも言えるが、逆に、大きなエネルギーを生むもの、とも言える。

死の前で人はおののき、嘆き、頭が真白になり、すくみ、途方に暮れる。ひとりで死ねない、ということはないが、死にはだれか伴走者がいる。多くは家族のようだ。患者さんと家族の伴走者は、医者や看護師たちだろうか。この人たちが、どう死に向かい合えるかが大切になる。死を敵視せず、難しい作業だが、死への親和をどう築いていけるかが、大切な仕事になると思う。

なぜそんな仕事をし、なぜそのことを書くか。

一つは事実を記しておきたい、日本人がこの時代どういうように死を迎えていったのかを記録しておきたい。根拠のない推測だが、近代化は、死を薄く、狭く、軽く、均一化してきたのではないか、と思う。せっかくの奇跡の生命なのに。人はもっと型破りに、助けを求める声に手をさしのべて、旅して、楽しみながら生きていって欲しいのに。