【第4回】靖国神社の歴史的変化
なぜGHQは靖国神社を廃止しなかったのか
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【第3回】はこちらをご覧ください。

靖国神社の誕生

靖国神社は明治維新とともに誕生した。1869年(明治2年)6月29日のことである。場所は東京・九段坂上で、軍務官知事であった仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきらしんのう)の命によって、副知事であった大村益次郎たちが建設地を決めたのだという。

なお、当初は東京招魂社と称されており、明治2年6月に創建されたのは、この年の5月に、いわゆる官軍と親幕府軍の戦いである「戊辰戦争」が終結したからである。

「戊辰戦争」とは、鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争(五稜郭の戦い)までを指す勤王と佐幕の内戦であった。そして、明治2年の時点で合祀された戦没者は3588名であった。佐幕側、つまり旧徳川幕府側の戦没者は合祀されていない。

なお、戊辰戦争には勝ったとはいえ、明治新政府の基盤は盤石とはいえず、そこで戦没者を名誉の戦死として顕彰する必要があったのだといわれている。

さらに、当初は建設地として、彰義隊(しょうぎたい)との激戦地となった上野が有力視されたのだが、上野は戦死した彰義隊の霊がさまよう亡魂の地として敬遠されたのだということだ。九段は元歩兵屯所跡で、約33万平方メートルもの広さがあった。現在の敷地の約3倍にあたる。

そして招魂社は、1872年(明治5年)から陸軍省と海軍省が共同で所管することになった。

しかし、戊辰戦争の後も国内状況は安定せず、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」からはじまって、「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、さらには征韓論で下野した西郷隆盛らによる「西南の役」などが続発した。そしてその度に官軍側の戦没者は招魂社に合祀された。だが、これらの戦いの戦没者たちは、いずれも戊辰戦争では官軍側だった人間たちである。そこで招魂社は、戦いのつど官軍と賊軍との差異を明確化するという役割を果たした。西郷隆盛や江藤新平たちは招魂社に合祀されていない。

そして明治7年1月27日、陸軍卿だった山県有朋を祭主とする例大祭に、はじめて明治天皇が行幸した。だが、この時点では、東京招魂社は神社を所管している教部省社寺局の管轄外であり、神社としての扱いは受けていなかった。

明治12(1879)年6月4日、太政官達(だじょうかんたっし)によって東京招魂社は靖国神社と改称することになり、歴史上の「忠臣」たちを祭神とする別格官弊社に列せられて、専任の神官(宮司)を置くことになった。

靖国神社がほかの神社と何よりも異なっているのは、歴代天皇による祭祀の継承が決められたことである。