【帝国ホテルの創設者 大倉喜八郎】閉口するほど広大な屋敷を手に入れ、7000坪の丘に別荘を13棟も建てた
世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」(その二)
旧帝国ホテル 喜八郎が設立した会社が主導し、アメリカの建築家、フランク・ロイド・ライトが設計、1923年に完成した

明治11年、大倉喜八郎は赤坂葵町三番地に広大な土地の払下げを受けた。
敷地7900坪の元前橋藩主・松平大和守の屋敷で、明治5年から工務省地理寮として使用されていた。
こうした払下げは国の方針によるものだった。主だった実業家に旧大名屋敷を与えて新政府財政の強力な後ろ盾にしようとしたのだ。
岩崎弥太郎には本郷湯島にあった桐野利秋の大邸宅が、安田善次郎には両国の田安邸が払下げられている。

この頃、喜八郎は鉄砲商いで儲けた金をもとに大倉組商会を創立し、海外貿易を始めており、さらに建築・土木事業にも進出して目覚ましい成功をおさめていた。

明治8年には、37歳で20歳年下の持田徳子と結婚。
徳子は日本橋橘町に住む持田とめの長女で、当時の女性にはめずらしく乗馬の趣味を持っていた。上野の不忍池の周囲に馬を走らせている姿を見た喜八郎が、「この娘こそ、自分の妻にふさわしい」と、見初めたのだ。

妻と生まれたばかりの娘三人で屋敷に移った喜八郎だったが、いささか広すぎたようだ。
「……夜小用を足すのに廊下で迷子になったり、風呂を浴びたあとどこかの部屋に入り込み、どの襖を開けても部屋また部屋、見たこともない畳廊下や便所が現れて、いい加減心細くなってきたところで赤子の泣き声にようやく見当をつけ、戻ってきたときにはくしゃみをしていたようなこともあって、とにかくばかばかしく広い屋敷に内心閉口する」(『鯰』大倉雄二)

この家を得てから、喜八郎は大事業家としての体面を整え始める。執事以下、家令、家扶、門番、庭師、車夫馬丁、奥女中、小間使い、料理番を雇い、夫人ともども言葉遣いも改め、上流の生活に慣れるよう努力した。

赤坂に本邸をもった2年後の明治13(1880)年、今度は向島の河川敷を買い求め、3000坪を埋め立てて、豪壮な別荘を建てた。

この場所にはいわくがあった。明治7年、台湾出兵に必要な兵器以外の物資の全てを調達するという政府の仕事を引き受けた喜八郎は出発の前日に、見納めになるかもしれないと、向島墨田堤で花見を楽しんだのだった。

それが4月8日だったため、毎年その日には「感涙会」という園遊会がこの別荘で行われるようになった。

「これには福沢諭吉、渋沢栄一、益田孝、幸田露伴その他、官界、財界、文化人、各方面からの毎回200名を越える名流紳士たちが午前11時から参集した。(中略)食事には、たとえば、一流料亭の『八百善』の豪華弁当が出たり、広い庭園に並んだ模擬店で楽しんだりもした。『帝国ホテル』から出張したコックが、フランス料理を調理することもあった」(『大倉喜八郎の豪快なる生涯』砂川幸雄)

「貧乏の原因は単純明快、怠け者だからだ」

商用で関西に行くことの多かった喜八郎は、神戸の安養寺山と呼ばれる標高55メートルほどの丘の7000余坪の土地を買収し、13棟の別荘を建てた。

この別荘は伊藤博文や松方正義も自由に使えるようになっていた。彼らのために別荘番が雇われ、仕出し屋からの食事を取り寄せ、副官や随員の宿の手配までしたという。

喜八郎の事業は順調だった。
長州藩出身で関西財界の重鎮・藤田伝三郎と組んで、日本最初の法人建設企業・日本土木会社を設立。施工した主要な工事は、皇居造営、帝国ホテル、歌舞伎座、日本赤十字社病院、工科大学本館など、105件に及んだ。

第一回東京府・府会議員選挙で議員にも選出され、「芸妓の税は3円にし、半玉は1円50銭にすべし」という動議を提出して、「大倉粋議員」とからかわれる一幕もあった。