週刊現代
あの戦争を知る政治家の思い
〜安倍首相の言動はあまりに軽く、危うい〜

魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第129回
〔PHOTO〕gettyimages

5月24日朝の『時事放談』(TBS)で野中広務・元自民党幹事長が安保法制について「ポツダム宣言すら読んだことのないような総理がこの国をどんな方向にもっていくのか。わずかでも戦争に参加した経験のある私としては、死んでも死にきれない気持ちだ」と語っていた。

野中さんは89歳。画面でお見受けしたところ背筋が伸びていて、まだまだ元気そうだ。久しぶりに聴く彼の言葉にはやはり重みがあった。戦争を知らぬ世代に自分の思いを伝えねばならぬという気迫を感じた。

一昔前まで自民党には戦争を身をもって知る政治家がたくさんいた。だが、櫛の歯が欠けるように次々といなくなり、野中さんは最後の一人になった。安保法制が国のあり方を変えてしまう、その前に、私がナマで聞いた彼の戦争体験を伝えたい。

旧制中学を出て、大阪鉄道局に勤めていた野中さんに召集令状が届いたのは1945年1月、19歳のときだ。その前年夏には「本土防衛の生命線」マリアナ諸島が米軍の手に落ち、すでにB29の大編隊による東京空襲が始まっていた。

彼は四国・高知城の陸軍の部隊に入営した。それから4ヵ月目に幹部候補生試験に合格。5月初旬以降、高知平野東部を転々としながら米軍の上陸に備えて攻撃演習を繰り返した。
兵士の大半は戦闘体験がなく、支給された剣も竹光で食糧も十分にない。行軍中に空腹に耐えきれず、田んぼわきの草をむしって口にする者までいた。

連隊の作戦計画は上陸してきた米軍に襲いかかり、海岸に追い落とすという勇壮なものだった。が、内実は敵の砲爆撃が一発もないときにしか通用しない代物だった。実際に戦いがはじまれば、全滅を免れない。

それでも当時は「この国のために、天皇陛下のために死ぬんが、われわれの人生の一番の誇りだと教育されてきたし、またそう思ってきたんですよ」と野中さんは私に言った。

1945年夏、彼の小隊は高知海軍航空隊の特攻基地(現在の高知空港)の東数kmに駐屯していた。そこには17~18歳の特攻隊員らがよく遊びにきた。
「特攻服に白いマフラー、格好良かったですよ。彼らは食糧事情がいいから、特攻服のポケットにビールや日本酒をつっこんで持ってきた」と野中さん。

特攻隊員らは基地を離れる前夜にも来て「いよいよ明日、九州に進出します」と言った。高知からいったん九州の基地に移り、そこから出撃するのだ。彼らの命はもういくばくもない。

野中さんは「できるだけ生きながらえてくれ」と言うのが精一杯だった。特攻隊員の一人がそのときつぶやいた言葉が何十年たっても忘れられない。

「まだ、一度も女を知らんのです」

翌朝、彼らが特攻機「白菊」で飛び立つのを見送った。白菊は偵察要員教育の練習機で、機銃もなく、戦闘機よりはるかに鈍足だ。レーダーで白菊の機影を見つけた米軍が速力の遅さから飛行機と思えず「日本は新兵器を繰り出してきた」と大騒ぎしたほどだ。そんな機体に爆弾を積ませて敵の艦船に体当たりさせようという作戦だった。

7月26日、米・英・中3ヵ国は日本に戦争終結条件を示すポツダム宣言(全13ヵ条)を発した。8月6日、広島に、9日には長崎に原爆が落とされた。14日、日本はポツダム宣言を受諾した。