【帝国ホテルの創設者 大倉喜八郎】有り金をつぎ込み20代で鉄砲店を開く。鹿鳴館、帝国ホテルを建てた「成金人生」とは
世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」(その一)
大倉喜八郎(1837~1928) 大倉財閥の創始者は、帝国劇場、大成建設、帝国繊維、東京経済大学と、様々なものを興した

東京都港区虎ノ門二丁目、アメリカ大使館のすぐ横に、ホテルオークラはある。
通っている床屋がホテル内にあるので、毎月一度は足を運ぶのだが、入口から一歩ロビーに入ると、洗練された和の空間の広がりに、ほっとした気分になる。

昭和37年、日本の美をもって諸外国の貴賓を迎えるという理念のもとに建てられたこのホテルの敷地にはかつて、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎の広壮な邸宅があった。

大倉喜八郎は、越後国北蒲原郡新発田の人である。
生年は天保八(1837)年。天保という年は元年に大久保利通、4年に木戸孝允、6年に坂本龍馬、10年には高杉晋作が生まれている。
明治維新という大変革の夜明け前。しかし、喜八郎の関心は国事へは向かわなかった。

裕福な商家の三男に生まれた喜八郎は、十六歳のときに父が、その翌年に母が亡くなったのを機に、安政元(1854)年、姉からもらった二十両をもって江戸に出た。

奉公先として選んだのが、麻布飯倉の両替商兼鰹節屋である。今でいうと、銀行が鰹節屋を兼業しているようなものだが、当時は珍しいことではなく、安田善次郎もまた両替商兼鰹節屋に奉公していたのだ。

江戸の両替相場は日本橋にあり、小僧たちはそこに行った帰りに、近くの角茶という店で茶飯を食べるのを楽しみにしていた。

小僧時代に知り合いともに大事業家となった二人は後年、「あの頃食べた角茶の茶飯の味は忘れられませんなあ」と懐かしがったという(「天才的商才と度胸の人大倉喜八郎」北康利)。

奉公に入った喜八郎は毎日、朝起きてから夜寝るまで、休むことなく働いた。彼にとって、働くことは苦ではなく楽しみだった。

その甲斐あって、店に入って3年という早さで独立。下谷上野町に乾物を商う「大倉屋」を開いた。

その後十年間、乾物の商売で地道に稼いでいた喜八郎に転機が訪れる。

慶応二(1866)年、開港したばかりの横浜に行った喜八郎は、大量の鉄砲が荷揚げされる様子を目にする。
その頃、討幕の動きが活発になり、幕府と薩長の間でいつ戦争が起きてもおかしくない状態だった。

「戦争になれば、武器が必要になる。そこには必ず商機がある」と、喜八郎は読んだ。
とはいえ、鉄砲は乾物とはけた違いに値が張る。簡単な商売ではない。しかし、喜八郎は臆さなかった。江戸に戻るとすぐ、八丁堀の鉄砲店に見習いに入った。
4ヵ月でおおよその鉄砲商いのこつを覚えると、それまでためこんだ二百両余りの金を全てつぎ込み、神田に「大倉屋鉄砲店」を開いた。慶応3年2月、29歳のときだった。

責められた相手に鉄砲を300挺売った

開業の翌年に戊辰戦争が勃発。全国から注文が殺到した。鉄砲の値は高く、現品を店頭に置くのはむずかしいため、注文が入ってから横浜に仕入れに出かけた。
たいていは急な注文で、出かけるのは夜中だった。現金を懐に、喜八郎は横浜に駕籠を飛ばした。当時はよく追いはぎが出たので、拳銃を二挺持った命がけだった。

夜が明けるころ横浜に着くと、一膳飯屋で朝食をすませてから商館に飛び込み、鉄砲を買いつけた。朝いちばんだから、品物はそろっているし、値も上がっていない。
寝る暇を持たない働きぶりで、百軒近くある同業者の先を越し、薩長側にも幕府側にも鉄砲を売り、喜八郎は儲けに儲けた。

慶応4年5月14日、官軍が上野の山を攻撃する前夜、喜八郎は突然彰義隊に連行された。大小を差した者たちに取り囲まれ、官軍に鉄砲を売り、こちらに売らないとはどういうことだと、責められた。死を覚悟した喜八郎はこう言い放った。