【第3回】 A級戦犯は戦争犠牲者といえるのか
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東条英機の尋問

1947年12月26日、この日東京・市ヶ谷の法廷には、日本の新聞社はもちろん、AP、UP、フランス通信、タス通信など世界の主要通信社が記者とカメラマンを派遣して待機させていた。この日の午後から、東京裁判のいわば「主役」である東条英機の弁護立証と尋問がはじまることになっていたからである。

朝日文庫の『東京裁判〈下〉』(朝日新聞東京裁判記者団)によれば、東条は、いつもは色あせた軍服を着ていたが、この日はだれが差し入れたものか、「仕立て下ろしの緑がかった軍服」を着ていたという。

同書は「なんといっても戦争の最高責任者、全世界の耳目がひととき、このたぐいまれな独裁者、八千万国民の運命を、あの無謀な真珠湾の一撃に賭けた大賭博師の告白に集注されたのも当然であった」と書いている。

その東条英機は、1884年(明治17年)7月30日に、東京府麴町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父親は当時陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)の東条英教で、英機は三男だったが、長男と次男はすでに他界していた。中学校を卒業すると陸軍幼年学校に入り、1905年(明治38年)3月、日露戦争の最中に陸軍士官学校を卒業し、歩兵少尉に任官した。

そして陸軍大学校に挑戦して一度は失敗するのだが再度挑戦して入学、歩兵第一連隊長、参謀本部課長などを経て、関東憲兵隊司令官、そして関東軍参謀長となり、岸信介、松岡洋右、星野直樹などとともに「満州の二キ三スケ」と称された。そして近衛文麿内閣で陸軍大臣となり、近衛の後をうけて1941年10月に首相となるのだが、内大臣の木戸幸一によれば「勅命を重んずることは、他の軍人に比して格別だった」ということだ。

木戸が近衛の後の首相に戦争強硬派の東条を選んだ理由を聞いて、昭和天皇は木戸に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と語ったそうである。日米交渉の進展を期待した昭和天皇は、強硬派の東条だからこそ戦争が回避できると考えたのであろうか。