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クルマ界歴史の証人 トヨタの新車開発秘話 初代ソアラの開発主査 PART2-1
白洲次郎氏からの一通の手紙

日本の自動車業界およびモータースポーツの勃興期に活躍され、多大な功績を収めた先輩方に語っていただく本企画。開発主査として初代ソアラを世に送り出した岡田稔弘さんの第2回目は、初代ソアラの誕生前夜とデビュー後の状況、白洲次郎氏とのエピソードを語っていただいた。

今回の証人岡田稔弘とは?

現在、トヨタ博物館に展示されている初代ソアラ2800GTエクストラの横で。協力/トヨタ博物館

1935年、群馬県桐生市生まれ。名門、桐生高校から京都工芸繊維大学へと進み、卒業後、1959年にトヨタ自動車工業入社。カローラ、コロナ、クラウンなど、まさに日本のモータリゼーション興隆期の真っ只中で多くのヒット作のデザインに携わる。1964年には「アメリカアートセンターカレッジ」に1年ほど社員として留学経験を積み、帰国。

トヨタ2000GTの「ボンドカー誕生」への寄与したほか、国内での乗用車開発でデザインを担当。そして主査として初めて担当した初代「ソアラ」を1981年、世に送り出す。当時としては「革新的なカーエレクトロニクスと高性能なエンジンやサスペンションなどをソアラ専用で開発する」という、まさに贅を尽くしたスペシャルティカーは、それまで欧州車が独占していた超高性能GTというカテゴリーに大きな一歩を記した名車として今も語り継がれる。

その後2代目、3代目とソアラ開発に携わり、現在のレクサスにつながるプレミアブランド確立の先駆けとなった。現在、槌屋顧問。今回は初代ソアラが誕生し、各方面から多くの声が寄せられ、そのなかには偉大な人物も……。

紆余曲折を経て決まった車名とシンボルマーク

1980年の大阪国際モーターショーで、ソアラのコンセプトカー、EX- 8 を出展する。実験的な試作車という意味のネーミングだったがほぼ市販されてもいい完成度だった

目標とする性能や特性を実現するために決して妥協できない状況のなか、つねに壁となって立ちはだかった「原価企画」。それによって、幾度となく中止の危機にさらされたソアラのプロジェクトだが、開発部門トップの強力なバックアップにより、何度も蘇った。同時に製造部門や営業部門の人々も、排出ガス対策だけのクルマ作りや販売に疲れていて、もっと「夢のあるクルマ」を待ち望んでいたのではないか……と、僕は今振り返ってみると思う。困難な「原価企画」がようやく承認され、企画台数2500台/月で全体の計算が成り立つことになって、新工場の田原で、1981年2月にラインオフすることとなった。

そして発表直前の大阪モーターショーでソアラのコンセプトカー、EX─8を展示することとなった。デビュー直前の1980年秋は、東京モーターショーの開催年ではなかった。当時、東京と大阪は、交互にモーターショーを開催することになっていたからだ。規模は少し小さくなるが、大阪国際モーターショーにEX─8を出展。翌年の2月に発表が決まっていたわけだから、ここでのお披露目が最後のチャンスだったのだ。EX(エクスペリメンタル)、つまり実験的な試作車、という意味のネーミングだったが、ほぼそのままで市販されてもよい完成度になっていた。

開発主査として、クルマには絶対の自信はあったが、注目され話題になるか、そして売れるかどうかに関しては、まったく予想も付かなかったし、不安を抱いていたというのが正直なところだ。しかし、蓋を開けてみるとターンテーブルの回りには幾重にも人垣ができ、大変な話題となった。今までのトヨタ車にはない、まったく違ったイメージを持ったスポーツカーの登場を人々は大きな興奮を持って迎えてくれた。それは予想を大きく超える出来事だった。

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