週刊現代
20年前、あの戦慄の裏側で
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第125回

時々、幼いころの故郷の風景を思い出す。町の外れに平らな干拓地が広がっている。青いイグサが風に揺れている。畑や田んぼの間を真っ直ぐ伸びる農道を進むと、コンクリートの高い堤防に突き当たる。堤防の向こうは不知火海。干潟のつづく灰色の海である。
オウム真理教の教祖だった麻原彰晃の故郷も同じ風景だろう。私の町から南へ十数㎞離れた干拓地だ。彼は貧しい畳職人の家に生まれた。7人兄姉の四男だった。

生まれつき左目がほとんど見えず、右目も弱視。しかも幻覚を起しやすい体質だったらしい。3~4歳のころ、魂が火の玉になって眉間から飛び出し、家族の寝姿を見たり、隣家を廻って帰ってくるという体験を何度かしている。

性格はおとなしく、花や昆虫の好きな子で、3歳で九九を暗唱できるほど早熟だった。保育園に入って数日で「あんなとこで教えること、みんな知っとるで行きとうない」と言って通うのをやめた。

満6歳で熊本市の全寮制の県立盲学校に入学した。高等部2年のとき、全国身体障害者大会の1500m走で4位に入り、翌年には柔道の初段試験にも合格した。
彼は専攻科に進んで漢方を学ぶうち中国の仙道に惹かれ、神道や仏教へと関心を広げていく。このころ柔道で疲れると、必ず幽体離脱の経験をしたという。

盲学校を出て、鹿児島などで2年ほど鍼灸師として働いた後、東京の予備校に行き、大学を目指した。だが、黒板の字が急に読めなくなって進学を断念し、予備校で知り合った妻と結婚した。麻原22歳、妻18歳のときだった---。

こんな話を始めたのは他でもない。『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社)が出版されたからだ。著者の本名は松本麗華。一時は麻原の後継者ともいわれた女性である。
本の表紙は、真っ直ぐ前を見つめる彼女の写真だ。内に秘めた思いの深さを感じさせる。父親の逮捕前、報道陣のカメラに向かいアッンカベーした12歳の娘が32歳の大人になっていた。

あれから20年。時がたつのは早いなと思いながら本を寝床に持ち込んだ。睡眠薬を呑んだから30分もすれば眠くなる。そんなつもりで読みだしたのだが、眠れない。事件の衝撃が脳裏に甦る。

彼女の苦難はそこから始まる。教団から離れても常に警察に尾行され、電話を盗聴される恐怖。普通に学び、働きたくても受け入れられない現実の苛酷さ。街を歩くときも買い物に行くときも誰かに監視されているという緊張感・・・・・・。

〈わたしは「生きる」ことに行き詰まってしまいました〉と彼女は言う。が、すぐ思いを決したようにこう語る。〈自らを表明しない限り、わたしを取り巻く真実を伝えることはできない。環境も現実も変えることができない―〉

それでやっと彼女の写真が表紙を飾った理由がわかった。もう逃げない。人目も避けない。「麻原の三女」という宿命を背負って生きていくという宣言だった。
そんな手記だから、家族の内情が赤裸々に綴られる。裁判記録や報道からうかがい知れない事実が次々でてくる。私が驚いたのは彼女が描く父母の人間像である。

彼女が物心ついたころ、一家は船橋に住んでいた。父は渋谷でヨーガ教室を営み、あまり家に帰らなかった。母は、父が'82年に薬事法違反で逮捕されたことなどから対人・外出恐怖症にかかり、家に閉じこもってばかりいた。
たまに父が帰ると、母は「何で帰ってこなかったのよ。1週間で帰ると言ったのに」と詰り、叩いたり引っ掻いたりした。父はそれにほとんど抵抗しない。そんな騒ぎがあっても3姉妹は父の帰宅を大喜びし、次姉は「太陽のない世界に、太陽が来た」と言った。

船橋の家には父の大事な瞑想室があった。麗華さんはそこで〈瞑想する父に抱かれて満ち足りた時を過ごしました。父は温かく、優しく、静かでした〉と回想する。