【炭鉱王・馬主としても知られる 上田清次郎】村長になるも、競馬場に通いつめ公務は助役に任せた。そして「大馬主」へ
福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」第123回 上田清次郎(その二)
豊州炭鉱 1923(大正12)年、上田が買収。'60(昭和35)年には出水のため、作業員67名が遭難する当時戦後最大の事故が発生した

昭和9年2月、上田清次郎は第14代川崎村長に選ばれた。

「川崎村というのは、揉めごとの多いところで、村議会はケンカばかりしよる。そのころ、隣の、安真木村と合併の話が、もちあがっておった。私は仕事に没頭して、そんなことは知らなんだけど、いよいよ連中は往生しきって、私に頼んだわけです。もちろん断ったけど、〝助役を二人にするから、あんたは何もせんでよか〟といわれりゃ、引受けんわけにいかん」(「筑豊の挽歌」佐木隆三)

22歳で炭鉱主になって、11年。上田は村の中で信頼される存在になっていた。その後、昭和13年の町制施行に伴い、上田は初代川崎町長となる。
しかし、炭鉱主になってから断っていた博打をその頃解禁した上田は仕事以上に競馬に夢中。役場には顔を見せず、競馬場に通いつめ、公務は全て助役に任せきりだった。それでいて、いざというときには、剛腕を振るい、町会では反対派の議員につけ入らせない。
度量の大きさが買われ、それから八年間も町長を務めることになる。

昭和21年3月、町長を辞任した上田は、その翌月に行われた、戦後第一回の総選挙に、社会党から立候補した。
福岡県は多くの鉱山、工場の労働者を持っているため、社会党と共産党が旧勢力を打倒しようという動きが活発だった。
上田はそれまで社会党員ではなかったけれど、戦争に負け、これから世の中は社会主義化するに違いないと見込んで、選挙に出るために社会党に入り、公認してもらったのだ。
結果は見事、トップ当選。ところが、翌年には翼賛会の役員をしていたことを理由に公職追放されてしまう。

昭和22年5月に社会党が第一党になって、片山内閣が発足した。
上田にとっては歓迎すべきことではあったが、片山が提出した「炭鉱国家管理法」には大反対であった。自分たちが苦労して発展させてきた炭鉱の経営を国の管理下におかれたら、たまったものではない。
700万円(現在の約2500万円)の金を東京に送って、関係する代議士を口説いた。

後に炭鉱国管疑獄で逮捕され、700万円の使い途を追及された上田は「競馬ですった」の一点張り。「競馬でどうしてそんなに取られるのか?」という検事の質問には「競馬はなんぼでも取られます」と返した。

上田自身によると、石炭でいちばん儲けたのは、昭和一九年から五年間だという。
この間の収入の詳細は明らかではないが、25年度分から、国税庁が高額所得者の番付の公示を始めると、上田は常連になった。
25年度は2593万円で六位だったが、翌年は1億3213万円で1位、27年度は2位に落ちたが、28年に再び1位に返り咲いた。

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清次郎ばかりではない。27年度は、二人の弟のうち、富蔵が五位、米蔵が六位、妹のをつが一六位で、四人で5億円を超えている。
この頃、上田一族は田川郡内に12の炭鉱を経営し、さらに新しい炭鉱を開発していた。

当時は所得税がほとんどかからない上に、石炭鉱業の振興を理由に、新しい炭鉱採掘には三年間の免税処置がとられていたのである。
昭和33年、川崎町は町制20周年を記念して、町役場前に上田清次郎の胸像を建てた。そこには「上田清次郎氏の像 信介書」とあるが、信介とは当時の内閣総理大臣・岸信介のことである。