週刊現代
西郷サンを巡る旅の終わりに
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第124回

赤坂見附から四谷方面に向かって外堀沿いを歩くと、長い上り坂に差し掛かる。ラフカディオ・ハーンの怪談『狢』の舞台として知られる紀伊国坂である。

坂の左に広がる赤坂御用地(旧紀州徳川藩邸)には明治6(1873)年5月、皇居が火事で焼失したため仮の御所が置かれた。後に太政官府も移転してきたから、ここは皇居が再建される明治中期まで日本の政の中心地だった。
政治家たちはそこで激しい主導権争いを繰り広げた。なかでも明治6年秋、大久保利通らが仕掛けた政変は、その後の日本の針路を左右する歴史的な事件だった。

その経過をざっと振り返ってみよう。同年10月15日、西郷隆盛を朝鮮へ派遣する件が改めて閣議で確認された。あとは太政大臣の三条実美が天皇の裁可を受けるだけ。事実上の最終決定である。
参議の中で西郷使節に反対したのは大久保だけだった。彼は使節派遣が開戦に直結して内政・外交に困難をもたらすと主張したが、肝心の直結する理由を「傲岸礼節を知らざる」朝鮮の態度という以外に合理的に説明できなかった。
これでは西郷の非武装・礼服での使節派遣論に太刀打ちできるはずがない。孤立した大久保は10月17日朝、三条邸を訪ね、辞表を叩きつけた。大久保の見幕に小心な三条は動転したらしい。

同日、右大臣の岩倉具視も辞意を表明した。大久保とは幕末から生死を共にしてきた仲である。三条は岩倉にこれまで通り助けてほしいと哀願したが、冷たく突き放された。その夜、三条は心労で高熱を発し、人事不省に陥った。
大久保の宮中工作が始まったのはそれからだ。彼は天皇の側近らに手を回し、10月20日、岩倉を太政大臣代理に就任させた。そのうえで岩倉にどんな脅しにも屈するなと固く言い含めた。

10月22日、西郷らは岩倉邸を訪ね、規定通り閣議決定を天皇に上奏するよう求めた。岩倉はそれを断り、「三条と自分は別人だから、自分の思い通りにする」と言い放った。閣議決定を覆す上奏をするという意味である。

年若い天皇が岩倉の上奏をはねつける可能性はまずない。西郷は直ちに辞表を提出。岩倉は10月23日、天皇に閣議決定を裁可せぬよう進言し、翌日了承を得た。
翌25日、板垣退助、江藤新平、副島種臣ら4参議の辞表が受理された。このため政府の首脳部から土佐・肥前勢力が大幅に退き、大久保中心の薩長政権が誕生した。
この結果が政変の本質を何よりよく物語っている。西郷+土肥勢力に政府の主導権を握られていた大久保・岩倉+長州勢力の巻き返し、一種のクーデターである。

この2年前、大久保や木戸孝允、伊藤博文ら維新の功労者の多くが、岩倉を大使とする米欧使節団に加わって日本を離れていた。彼らの心中には、留守中に急進的な改革を進めて実績をあげた江藤らへの反感が渦巻いていたという。

「征韓」論争はそんな彼らの反撃のきっかけになり、征韓派=留守政府組vs.内治優先派=外遊組という実態とはかけ離れた対立構図が作り上げられたらしい。
実際には西郷は征韓を唱えていない。10月15日の最終閣議に提出された西郷の意見書にはこんな趣旨のことが書かれている。

「派兵は決して宜しからず。公然と使節を派遣するべきだ。もし朝鮮側が戦をもって拒絶しても、相手の真意がはっきりするまでは交渉を尽くさなければならぬ。使節に対し暴挙に及ぶのではとの疑念から戦争準備をしておいて使節を派遣するのは礼を失する。そんなことをせず、両国間の交誼を厚くするという趣意を貫きたい」