【炭鉱王・馬主としても知られる 上田清次郎】バクチと女にすべてを使った―「最後の炭鉱王」の若かりし頃
福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」第122回 上田清次郎(その一)
上田清次郎(1900~1987) 筑豊炭田で炭鉱を経営し、高額納税者番付で1位も獲得した「炭鉱王」。馬主としても知られる

今年も競馬のクラシックレースが幕を開けた。4月12日の桜花賞では、五番人気のレッツゴードンキが逃げ切って圧勝。場内を沸かせた。
しかし、クラシックレースで何といっても注目されるのは、日本ダービーだろう。
このレースで優勝することが、日本競馬にかかわる全ての人たちの夢だといっていい。

ダイコーターという馬をご存じだろうか。1965年、NHK杯に快勝し、日本ダービーの最有力馬となった。ところがダービーが行われる2日前にこの馬を馬主から無理やり買い取った人物がいた。
最後の炭鉱王といわれた上田清次郎である。

上田はダイナナホウシュウで皐月賞と菊花賞、ホウシュウクインとミスマサコで桜花賞を制した関西の大馬主だったが、ダービーだけは勝てずにいた。
何としてでもダービー馬の馬主になりたい上田が馬主に支払った金額は、当時の日本ダービーの優勝賞金800万円の3倍にあたる2400万円だった。

現在のダービーの賞金は2億円なので、今の貨幣価値に換算すると、6億円を支払ったことになる。

「ダービーを金で買うのか!」とさんざんに批難されたが、結果は二着。しかし、秋の菊花賞を制した。

その後も上田はダービーに挑み続けたが、結局優勝できないまま、競馬界を去ることになる。

上田清次郎は明治33年、福岡県田川郡川崎町に生まれた。
家は農家で5、6頭の馬がいたので、小学校を出ると、運搬業を始めた。その傍ら、草競馬に出ては、自分で馬を走らせていた。

17歳のとき、豊州炭鉱の職員から、ある頼まれごとをした。
炭鉱のある地域では必ず、炭鉱に対して、文句を言ったり、因縁を付けてくる人がいた。今でいうクレーマーだ。
豊州炭鉱では「鬼より怖い」と言われるタツに頭を悩ませていた。
タツは炭鉱に来ては文句をがなりたて、懐柔しようと職員が家に行っても、怒鳴りちらされて帰ってくるのがおちだった。

上田はタツのなだめ役を引き受け、毎日毎日、怒鳴られてもあきらめずに家に通っているうちに、とうとうタツのほうで根負けして、何も言わなくなった。
すると、「おまえはたいした者だ、大学出のうちの職員ができんことをやる」と、炭鉱主の福田定次の目に止まり、炭鉱の仕事が与えられた。
坑内から上がった石炭は塊炭と粉炭に分けて駅までトロッコで運ぶ。このトロッコ積みを任せられたのだ。

22歳で従業員200人のヤマ持ちになった

「当時の労賃は、坑内に入る人で腕がよければ2円になる。坑外で働く人なら、1円か1円20銭。これが女の子なら4、50銭です。だから私は、炭鉱の住人を集めた。女子どもでも積み込みは出来るから、学校から帰ったのと交替させたりして、それで大儲けです。どうかすると私は、1日に8円から10円は儲けた」(「筑豊の挽歌」佐木隆三)