読書人の雑誌『本』
超高層建築の礎を築いた男が建てられなかった、幻に終わった東京駅超高層化計画とNHKタワー

幻の高層建築物―東京駅超高層化計画とNHKタワー

(文・大澤昭彦)

高度成長期の東京に、未完に終わった二つの高層建築物があった。一つは、東京駅の超高層化計画。もう一つは、代々木公園に計画された高さ610メートルのテレビ塔である。ともに、日本の超高層時代をつくった建築構造学者、武藤清が設計に大きく関わっていた。
昨年、東京駅は開業100周年を迎えた。赤レンガ駅舎は、空襲で被災する前の姿に復元され、左右に並ぶ八角形のドームが開業当時の偉容を誇っている。この駅舎は、いまや東京のランドマークであるばかりでなく、近代日本を象徴する歴史的遺産となった。

しかし、東京駅赤レンガ駅舎は解体の危機を迎えたことがあった。1958年、十河信二・国鉄総裁が24階建ての高層ビルへの建替えを公表したのである。同年、高さ333メートルの東京タワーが完成するが、当時、ビルの高さは最大31メートル(100尺)に制限されていた。65・45メートルの国会議事堂が、ビルとしては日本一だった(これは法の例外措置で建設)。欧米で一般化していた超高層ビルを、日本で初めてつくる前代未聞の試みであった。

結局、東京駅超高層化計画は雲散霧消した。ただ、この検討は無駄ではなかった。研究過程で培われた技術が、日本初の100メートル超の高層ビル「霞が関ビル」として結実したのである。

霞が関ビルと東京駅超高層化計画の中心にいた人物が、建築構造学の泰斗、武藤清である。武藤が耐震設計の道を志したのは20歳の時。関東大震災で建物が倒壊し、灰燼に帰した東京を目の当たりにしたことがきっかけだった。その後、耐震設計の第一人者となった武藤は、東京駅超高層化計画の検討を依頼された。当時、地震国日本で、超高層ビルは不可能と言われていた。

しかし、武藤らは、地震で倒壊した記録が残っていない五重塔の構造に着目。あえて建物を揺らすことで地震の揺れを吸収する「柔構造」で超高層化が可能であることを確かめ、その技術を霞が関ビルで開花させた。霞が関ビルが竣工した1968年は、日本のGNPが西ドイツを抜き世界2位になった年。この超高層ビルは、超高層時代の礎となったばかりでなく、驚異的な経済成長を遂げる日本のシンボルともなった。

霞が関ビル完成の翌年、武藤はNHKから高さ600メートル級のテレビ塔の設計を依頼された。既に東京タワーが存在していたが、国が示したテレビ電波のUHFへの移行方針で、関東一円に電波を送信するためには600メートル級のタワーが必要とされていた。当時、日本テレビが550メートルの正力タワーの建設を計画していたため、NHKと日本テレビはタワーを巡って対立していくが、この経緯については、拙著『高層建築物の世界史』(講談社現代新書)で触れている。

正力タワー計画は自然消滅したものの、NHKタワーはその実現に向けて着々と準備が進められた。武藤清率いる武藤構造力学研究所が設計を進め、1971年、地上488メートルの位置に展望台を持つ610メートルのタワー案が固まった。場所は、NHK放送センターに隣接する代々木公園。モスクワのオスタンキノ・タワー(537メートル)をゆうに超える世界一の自立式タワーであった。
「この塔はただ単に世界で最も高いだけではなく、最も美しいものであってほしい」。武藤らはタワー計画の報告書にこう記した。巨大なタワーは東京のスカイラインを一変させることから、「視覚的な公共性」を備えるべきと彼らは考えたのである。タワーには、武藤らの高い志が込められていた。