シマコービジネススクール 第4回
~課長・島耕作のホームベーカリー〈後編〉~

早稲田大学ビジネススクール准教授 長内厚
〔PHOTO〕thinkstock

 シマコービジネススクールとは?
日本を代表するビジネスマンガといえる「島耕作」シリーズ。大手家電メーカーで働く主人公が、現代企業版「のらくろ」のように出世をする過程で、様々なビジネスや事件を体験していきます。ストーリーには、著者の弘兼憲史先生の綿密な取材を基にした実話エピソードもちりばめられていて、企業、特に製造業の ケーススタディーの素材としても活用できるほど。
そこで、このコーナーでは、早稲田大学ビジネススクール(大学院商学研究科)で技術経営・経営戦略論を教える筆者が、島耕作シリーズのケーススタディーを通じて、ビジネススクールの講義のエッセンスをお話しします。

【第3回】はこちらをご覧ください。

「暗黙知」と「形式知」

前回に引き続き、島耕作のパンメーカーの話です。

松下電器がどのようにパンの質的情報である「美味しさ」を形にしたかをお話しする前に、知識には「暗黙知」と「形式知」という二つの異なる性質があるということからお話ししましょう。

この分類は、マイケル・ポランニーという社会科学者が提唱し、野中郁次郎先生が、暗黙知と形式知の変換を繰り返すことで新たな知識を創造することができるという経営学の議論に応用しました(これは、SECI理論と呼ばれています。読み方は「セキ理論」です)。

形式知とは言葉や数値的なデータのことで、文書や図表などで表現でき、それらの記述によって他者に伝達可能な知識のことです。一方、暗黙知とは、想いや文脈といった、経験によって得た感覚のような、形式知的に表現したり伝達したりしにくい知識のことで、芸術性や職人の技能、ノウハウ、「北斗神拳」などがこれにあたります。

また、知識とは、人と人、あるいは組織と組織の関係の中で場面特殊的(ある状況での文脈)であったり、経路依存的(これまでの経緯の文脈に依存したもの)で、簡単に言えば、情報に誰かの想いや意義が込められたものと野中先生は考えています。

マンガ世代に分かりやすい例を挙げれるとすれば、「次回作に期待」という文言があります。何の状況も想像せずに受け取れば、この情報の提供者は、次に出てくる作品を期待しているということになりますが、これが講談社のサイトでは言いにくい某出版社の少年マンガの最終回に付された言葉という状況が加味されると、「ああ、そういう(今作は残念な結果になったという)ことなんだな」と寂しい状況が理解できるわけで、知識には担い手の想いや主観が込められるわけです。

企業の経営という文脈で言えば、情報に付加される担い手の想いとは、ダイレクトに言えば「儲けたい」ですし、もうすこしお上品にいうのであれば、それこそが「価値」なのだ、ということができます。

そこで問題になるのは、暗黙知的な知識を企業、特に製造業はどのように扱えばよいかということです。その一例として野中先生は、松下電器(現パナソニック)のホームベーカリーの開発ストーリーを紹介しています。

初期の段階でホームベーカリーの開発がうまくいかない(島耕作に「スカスカでうまくない」といわれてしまう)一番の要因は何か? ホームベーカリーの性能は、パンがどのくらい美味しく作れるかということですが、そもそも「美味しいパン」とはどのようなパンなのか、ということが暗黙知であるから難しいのです。これが音質とか画質というような性能であれば、なんらかの測定器で計測し、形式知化して性能を向上させる数値的目標を設定できるのですが、美味しさという暗黙知をどう形式知化するかというのは難しい問題です。

そこで松下電器の開発チームは、地元大阪で美味しいと評判のパン屋に開発メンバーを修業に行かせたのです。もちろん、メンバーの目的はパンそのものを作ることではありません。本格的なパン職人の作り方とホームベーカリーの作り方は全く違うのですが、まず、美味しいパンとはどういうものなのか、つまり「パンの美味しさ」という暗黙知を暗黙知のまま学び取るために、あえてパン屋に修業に行ったのです。

修業に行った開発者は新人のパン職人同様、シェフに怒られ、シェフや先輩職人たちの仕事を横目に見ながら試行錯誤してパンを焼いていきます。いわゆる、「技は盗んで覚えろ」というやつですね。そして、開発メンバーのひとりが、美味しいパンの暗黙知を身につけて会社に帰ります。こうした人から人への暗黙知の移転を野中先生は「共同化」と名付けました。

一方、京都で総スカン状態の島耕作は、その後、ひたすら自社のホームベーカリーで焼いたパンをお昼ご飯代わりに食べ続けました。その努力が認められて、同じ部署の鈴鴨からお許しを得るのですが、ひたすらパンを食べ続けて開発者の気持ちになる、というのも共同化プロセスと言えるでしょう。

さて、美味しいパンの暗黙知を持ち帰った松下電器の開発メンバーは、それを設計情報に落とし込むために、定量化を行っていきます。美味しいパンとはどのような柔らかさで、どの程度の水分含量で、小麦粉の密度はどのくらいで・・・といった形で、暗黙知を要素毎に量的なデータに落とし込みます。このプロセスを経ることで、暗黙知は形式知に転換されていきます。

このような暗黙知の形式知化を「表出化」と呼びます。心の中で主観的に持っている知識を、形式知として文章や数値に表すから「表出化」というのでしょう。さらに、形式知と形式知をつなぎ合わせて新たな知識を作るプロセスは「連結化」と呼びます。

パナソニックの製品の開発裏話などのコラムが掲載されている「パナソニック・イズム」というサイトには、ホームべーカリーの開発が始まった当時の話が語られています。

〈 今をさかのぼること19年前の1984年。社内では、炊飯器事業部と回転器事業部、電熱器事業部が統合し、電化調理事業部が発足した。炊飯器のマイコン技術、回転器のモーター技術、電熱器の温度制御技術。『何かこれまでのウチの技術を統合した、斬新な商品はできないだろうか?』そこで浮上してきたアイデアの一つが、自動製パン機――後に一世を風靡することになる、ホームベーカリーだった。 〉(出典:パナソニック・イズム「西洋の食卓に根づいた、日本の技。~ホームベーカリー~」第1話)

『課長 島耕作』に出てくるホームベーカリーは、電熱器事業部という事業所が製造していましたが、松下電器の場合には、3つの事業部が合体してできた電化調理事業部という部署がホームベーカリーの開発をスタートしました。パナソニックのサイトにあるように、ホームベーカリーの開発には暗黙知的な美味しいパンの知識を形式知化した知識に加え、旧3事業部が持ち寄ったマイコン技術、モーター技術、温度制御技術などの既存の形式知が組み合わさり、形式知と形式知を連結することで新たな製品が開発されたのです。

新しい製品の開発とは「価値の創造」ですす。知識と知識がある目的に向かって変換されたり連結されたりすることで新たな価値が創造されるわけです。

最終的に完成した製品は市場で売られていきます。製品を購入した顧客は開発者の苦労などつゆ知らず、おいしい/まずい、便利/使いにくい、などという具合に主観的な感想を抱きます。まさに、着任早々の島耕作のようにです。つまり、形式知の連結によって産み出されたホームベーカリーの価値は、最終的には、顧客によって再び暗黙知的な主観的知識によって評価が表現されるのです。

マーケティング部門は、こうしたお客様の声を収集し、開発の現場にフィードバックします。お客様の声は次の開発のネタになる大切な知識です。しかし、お客様の声は「ここの加熱プロセスは何秒以内に何度上昇させるべきだ」のように形式知的に寄せられるものではなく、誰かのように「なんだかスカスカして・・・」などと暗黙知で返ってきます。すなわち、形式知は再び暗黙知となって戻ってくるのです。このプロセスを野中先生は「内面化のプロセス」と呼んでいます。

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