週刊現代
誰が「朝鮮を攻めよ」と言ったのか
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第123回

花曇りの昼下がり、赤坂見附から弁慶橋を渡った。左にそびえ立つのはホテルニューオータニ。右手の旧赤坂プリンスホテルは建て替え工事の真っ最中だ。その間を抜ける一本道を行くと、静かなたたずまいの公園が見えてきた。
清水谷公園である。ここは明治の昔、北白川宮邸があったところだ。公園の背後の崖に生い茂る巨木はそのころの名残だろう。

崖の手前の園内には、驚くほど大きな石碑があった。台座を含め高さ6・27m。「贈右大臣大久保公哀悼碑」と記され、空へ昇る竜の姿も刻まれている。
これは明治11(1878)年5月に暗殺された大久保利通の哀悼碑だ。彼は赤坂仮御所に馬車で向かう途中、私がいま歩いてきた一本道で待ち伏せていた民権派の石川県士族ら6人に頭などをめった切りにされ、絶命した。

西郷が西南戦争で自死して約8ヵ月後の出来事だった。急を聞いて部下の前島密が現場に駆けつけたとき、大久保はまだ路上に倒れていた。体は血だらけで、脳が砕け、ぴくぴく動いていた。

大久保は3~4日前「昨夕、変な夢を見た」と前島に漏らしていた。西郷と言い争って格闘になり、崖から落ちて頭を石に打ちつける夢だった。「自分の脳が砕けてぴくぴく動いているのがありありと見えたが、不思議な夢ではありませんか」と言った。前島はその話を思い出し、ゾッとしたという。

西郷と大久保。幼馴染みで、ともに維新の原動力となった二人は明治6(1873)年の政変で袂を分かった。通説では、西郷の征韓論が大久保の内治優先論に敗れたことになっているが、不可解な点が多い。政変の真相を知るため毛利敏彦・大阪市立大名誉教授の学説に耳を傾けてみよう。

発端は明治6年5月、釜山の日本公館(倭館)から寄せられた報告だった。朝鮮側が公館前に出した掲示に「日本は無法の国」だなどの侮辱的文言があったという。
当時、朝鮮は鎖国をつづけ、日本と正式な国交を開いていない。掲示は日本商人の密貿易を取り締まるためのものだったが、外務省は、居留民保護のため軍隊と使節の派遣を閣議に提案した。

閣議ではまず板垣退助(土佐藩出身)が原案に賛成し「兵士一大隊を急派せよ」と言った。これに対して西郷は「派兵ではなく、まず全権を委ねられた大官の使節を派遣すべきだ」と主張した。

太政大臣の三条実美は「使節を派遣するなら護衛兵とともに軍艦に乗っていくべきだ」と述べた。西郷はこれにも「使節は『烏帽子、直垂』で礼装し、非武装でなくてはならぬ」と反論、自ら遣韓使節として赴く意向を表明した。

あらかじめ断っておくと、ここまでの経過で歴史家たちの見解に大きな食い違いはない。朝鮮派兵の急先鋒は、後に自由民権運動の指導者として知られる板垣で、西郷は非武装の使節派遣を唱えている。その意味では「西郷=征韓論の首魁」という世間に流布したイメージは事実の誤認である。

さて、問題はこれからだ。閣議の結論は保留された。外交責任者の外務卿・副島種臣(肥前藩出身)が清国出張中だったからだ。
その副島が帰国した2日後の7月29日、西郷は板垣あてにこんな趣旨の手紙を書いている。