【麻生財務大臣の父・麻生太賀吉】「金が足りなくても麻生がくれる」―起死回生の事業でさらに富を蓄えた

福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」連載第121回 麻生太賀吉(その三)

2015年04月24日(金) 福田 和也

昭和21年5月22日、吉田茂内閣が成立した。
戦後、自由党総裁の鳩山一郎が公職追放となり、その後任として総裁を引き受け、内閣総理大臣に就任したのだ。
その後、社会党の片山哲、芦田均に政権が移るが、昭和23年には再び内閣総理大臣の座に返り咲き、それから6年余りもの間、首相の座に座り続けた。

24年1月の総選挙で、麻生太賀吉は福岡四区から出馬し、当選した。
政治家になるつもりなど全くなかった太賀吉だが、少数党内閣で苦労をしている岳父を見るに見かねてのことだった。
太賀吉は家族そろって東京都渋谷区の神山町に居を移し、その私邸から毎日、首相官邸に通うことになった。

太賀吉は吉田の相談役であり、代弁者であり、金庫番だった。
吉田は金が足りなくなっても、「麻生が振り込んでくれる」と、悠々としていたという。吉田政権時代の政治資金は太賀吉が工面していたのである。

それができたのは、その頃はまだ石炭業が好況だったからだろう。
政府が戦後復興のエネルギー源として石炭の増産を打ち出し、朝鮮戦争という追い風もあって、昭和25年から28年にかけて、筑豊には300を超える鉱山が乱立した。人が集まり、金がうなった。
しかし、それはほんの一ときのことだった。間もなく石炭は安価なエネルギー源の石油にのりかえられたのである。

昭和40年代に入ると、麻生が飯塚に持っていた七つの炭鉱は次々に閉山していった。44年、最後の吉隈炭鉱が閉山となり、明治5年に太吉によって始められた麻生の石炭業は幕を閉じた。
しかし、太賀吉はこの時がくることを見越してセメント業に力を注いでいた。
石炭業から完全に撤退する3年前には、セメント部門のみを独立させ、麻生セメント株式会社を発足させている。このセメントが麻生の起死回生の事業となったのである。

この頃、太賀吉の長男、太郎は学習院大学を卒業して産経新聞に入社し、社員のままロンドンの大学に留学していたが、留学中に太賀吉が勝手に会社に辞表を出してしまった。
このときの太賀吉の弁はこうだ。

「うちの会社は、いつ潰れるかもしれん。若いうちに、そういう潰れそうな会社にはいって、苦労するのも、いい経験になるぞ」(「転機に立つ名門財閥の御曹司社長 麻生太郎」武田繁太郎)

座右の銘は「程度大切、油断大敵」

父親の言葉に従い、太郎は麻生産業に入り、太賀吉のもと、経営者としての見習いを続け、昭和48年、33歳で麻生セメントの社長に就任した。
このとき、太賀吉は62歳。まだまだ働き盛りと思われたが、経営の一線から退いて会長となり、ゴルフ三昧の生活に入る。

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