週刊現代
花見がてらにもう少し歪められた西郷サンについて
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第122回

週末の午後、花見がてらに、勝海舟ゆかりの洗足池(東京都大田区)に行ってみた。
洗足池は周囲1・2km。武蔵野台地の末端の湧水をせきとめた大池だ。古くは広重の『江戸百景』にも描かれた景勝地だけに、桜やしだれ柳や松の彩りが美しい。
晩年の勝はこの風光を愛して池畔に別荘を設け、晴耕雨読の日々を送った。「富士を見ながら土に入りたい」と言って別荘の背後の丘に墓所を用意したそうだ。

上野の西郷サンの除幕式から一月後の明治32(1899)年1月、勝は没した。勝が建てた西郷隆盛の碑は、その後、浄光寺(葛飾区)から移され、いま勝の墓所の隣にひっそり佇んでいる。

私はその碑に刻まれた西郷自筆の詩に心惹かれた。藩主の父・島津久光の逆鱗に触れ、沖永良部島に流された時の作である。

〈朝に恩遇を蒙り夕に焚阬せらる
人世の浮沈は晦明に似たり〉

朝に主君の恩遇を受けたと思うと夕には生き埋めにされる。人生の浮沈は、夜と昼のように移り変わる。心から傾倒した先君・斉彬の死後、久光の憎悪を一身に浴びた西郷の実感だったろう。

〈縦い光を回らさずとも葵は日に向かい
 若し運を開くことなくとも意は誠を推す〉

たとえ光が射さなくても葵の花は日に向かって咲く。運が開けなくても心は誠に向かう。

〈洛陽の知己は皆鬼と為り
南嶼の俘囚独り生を窃む
生死何ぞ疑わん天の附与なるを
願わくは魂魄を留めて皇城を護らん〉

京都の友人たちは安政の大獄や寺田屋事件で皆死んだ。自分一人が南の島に囚われて生き恥をさらしているが、生死は天から与えられるものだ。死んでも魂は地にとどまって皇城を守りたい---。

西郷の生涯を凝縮したような詩である。朝に維新の元勲と讃えられ、夕に朝敵と罵られて死ぬ。そんな悲劇的な最期もあるいは覚悟の上だったのかもしれない。
そうまでして西郷が作りたかったのはどんな国だろう。勝が唱えたように東アジア同盟で欧米列強に対抗する国か。それとも吉田松陰流のアジア侵略国家か。それを知る手掛かりとしては、江華島事件に関する西郷の手紙がある。

まず事件の概略をご説明しておこう。明治6(1873)年の政変で西郷が下野してから2年後の9月のことだ。日本の軍艦が朝鮮半島の江華島砲台の近海をあからさまに測量した。そのうえ水の補給を乞うとして、艦長自らがボートに乗って江華島に接近した。
これに対し朝鮮側が射撃した。すると艦長はすぐ艦に戻り、江華島砲台を艦砲射撃したうえで占領し、戦利品を奪って帰還した。明らかな日本側の挑発行為だった。

翌年初め、薩摩の黒田清隆を全権大使とする使節団が軍艦6隻に守られて江華府に赴き、朝鮮に開国要求を突きつけ江華島条約を結んだ。幕末日本が欧米に強要されたのとよく似た、いや、それに輪をかけた不平等条約だった。

西郷は事件が起きた直後の明治8(1875)年10月、部下の篠原国幹にこんな手紙を書いた。

「朝鮮は日本が数百年来交際してきた国だ。維新以来、両国に葛藤が生じて5~6年談判を続けている。なのに、まったく交際のない〈人事尽し難き国〉同様に戦端を開いたことは誠に遺憾千万だ」