【麻生財務大臣の父・麻生太賀吉】「川筋気質」を持つ炭鉱王とは違う―地域の発展を優先し好況の波に乗った

世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」第120回 麻生太賀吉(その二)

2015年04月17日(金) 福田 和也

「川筋気質」という言葉がある。
筑豊を流れる遠賀川の川筋に生きる人たちの気性を表す言葉で、「理屈をこねない」「竹を割ったような潔い性格」「宵越しの金を持つことを恥とする」といった特徴があげられる。

こうした気質は、筑豊の炭鉱で働く男たちの生き方から生まれた。
重要なのは、労働の体験と開拓者的な明るさが根本にあるということで、やくざの任侠とは意を異にする。

麻生家の人間は太吉の代から石炭業に着手し、筑豊の炭鉱とともに生きた。
しかしながら、太吉も太郎も太賀吉も、「川筋気質」とは縁遠いように思える。
それは恐らく、彼らの家がもともと庄屋であり、土地の治者であったからだろう。

炭鉱王と呼ばれた貝島太助、伊藤伝右衛門はいずれも炭鉱夫出身であり、まさに「川筋気質」を地でいくような人物だった。
貧しさから抜け出すために、石炭を掘って一発あてることを目論み、それに成功して巨万の富を築いた者たちである。
だが太吉は地元の声望家であり、自分一人が儲けるだけでなく、石炭を企業化し、地域を発展させることを考えていた。

太郎の死後ただちに、太賀吉の教育が開始された。
田舎の学校に通っていたのでは勉強が遅れると、太吉は太賀吉に家庭教師をつけた。
しかし、それだけでは十分ではないと、太賀吉を東京に送り、学習院に通わせた。
弟の典太は兄について、こう語っている。

「帝王学などというと大仰かもしれませんが、兄と私はやはり異なった教育を受けましたね。兄には母も含めて太賀吉さんと呼び、私は呼び捨てでした。兄には敬語がつかわれましたし、周囲の者にも兄が祖父の事業を継ぐということをわからせていました。それと母からは決してこちらの方言をつかってはいけない、話し言葉は標準語でといわれていました」(「筑豊の栄枯盛衰と麻生一族」保阪正康)

太賀吉は中学の初めまで学習院に通ったが、大正12年の関東大震災で福岡に戻り、福岡中学に入った。

中学卒業後は大学には進まず、九州大学法文学部の聴講生となり、また九州大学の教授が開いた塾などに通い、経営者になるための勉強を続けた。
この間、太吉は、電気、鉄道、林業、金山、セメントと、事業を拡大していった。

太吉が亡くなったのは昭和8年12月8日。77歳だった。
葬儀には当時の飯塚市の住民四万人の大半が参列し、先頭が遠く離れた墓前で合掌しているとき、後列は麻生家の本家の中で足踏みをしていたという。

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