週刊現代
西郷隆盛と勝海舟のナゾ

魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第124回
征韓議論図---wikipediaより

近代史の謎――明治六年政変の真相にアプローチするため、もう一度、上野公園の西郷サンに立ち戻りたい。この銅像の除幕式があったのは、明治31(1898)年12月18日、日清戦争の終結から3年後のことである。

参加者の顔ぶれを見ていただきたい。山県有朋(総理大臣)、西郷従道(内務大臣)、大山巌(侯爵)、山本権兵衛(海軍大臣)、樺山資紀(文部大臣)、黒田清隆(元総理)、勝海舟(伯爵)、榎本武揚(子爵)ら800人余り。

長州藩出身の山県を除けば、大半が薩摩藩出身か旧幕臣だが、錚々たるメンバーだ。明治政府にとってこの行事の持つ意味は重かったと言わねばなるまい。
山県の祝詞の後、除幕委員長の川村純義(伯爵)が勝の和歌を代読し「昔、江戸百万市民を戦禍から救ったのは二雄(西郷と勝)の力なり。今や幽明界を異にしながらも両雄一場に会す。勝伯爵の心事を深く察すべし」と演説した。

西郷の弟・従道の娘の手で幕が除かれた。そのとき人々はあっと驚いた。西郷が筒袖の着物、兵児帯に短刀をさし、草履をはき、犬をひいていたからだ。将軍の銅像=軍服姿という、それまでの常識を覆す、庶民的な姿だった。

歴史家の井上清は<西郷隆盛は、この銅像によって一挙に庶民万人に親しまれる英雄となった。(中略)民衆はすっかり西郷びいきになった。そしてその西郷びいきを通じて、「東亜経綸の大先覚者」、「熱烈なる勤王家」という軍国主義・天皇主義のシンボルとしての西郷讃美も民衆の間に浸透させられていった>と書いている。

言われてみればその通りだ。銅像のインパクトが歴史に与えた影響は無視できない。少なくとも民衆の間に浸透した西郷賛美が、彼が唱えたとされる「征韓論」と結びつき、大陸進出の国策を後押ししたことは間違いないだろう。

そうなってしまうことの危うさを誰よりもよく分かっていた人物が除幕式の参加者にいた。西郷とともに<両雄>とたたえられた勝海舟である。彼は複雑な思いを抱えていたらしい。後で式典の感想を聞かれ、こう答えている。

<演説とか何とか言うから、怒りに行ったのサ。寒くて、たまらないから、小使部屋の方に行って温たまっていたよ。どうも出来がよくない。下手のようだナ>

勝海舟---wikipediaより

つまり勝は演説を頼まれたが断った。式には形ばかり参加しただけだ。高村光雲作の銅像も気に入らないと言ったのである。

これは私の推測だが、勝の心中には、自分の西郷への思いが国策に利用されているという苦々しさがあったのではないか。西郷の復権に最も尽力してきたのは他ならぬ勝自身だったからだ。

彼は西南戦争から2年後の明治12(1879)年7月、浄光寺(葛飾区)に独力で西郷の記念碑を建てている。裏に「ああ君よく我を知れり、而して君を知る亦我に若くは莫し」という文を記した。

明治政府に反旗を翻した西郷の気持ちを最も分かっているのは自分だという意味だ。内戦の記憶が新しい時期にこんな碑を建てるにはよほど覚悟が要っただろう。
それから4年後に勝を訪ねた吉井友実ら旧薩摩藩士3人が初めてこの石碑が建てられているのを知り、「驚喜」して西郷の七回忌を営んだという記録が残っている。