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ドキュメントここで間違えれば会社は終わる 社長交代ホンダ・伊東孝紳の場合
伊東孝紳社長(左)は、後任に八郷隆弘氏(右)を選んだ〔PHOTO〕gettyimages

ジャーナリスト 井上 久男

伊東社長の就任以来、ホンダが掲げていたパワー・オブ・ドリームス—革新を求める「夢の力」は失われていった。どうしてこの突然の交代劇に至ったのか。そしてホンダは今後、どこへ向かうのか。

辞める気はなかった

「2015年、飛躍する準備は整いました。いまここで、新しく若いリーダーの下、一丸となってチャレンジするべきだと考え、八郷に社長を引き継ぐことに決めました」

2月23日夕方に開かれた記者会見の席で、ホンダの伊東孝紳社長(61歳)は眼鏡の下に涙を滲ませながら、こう語った。自らは社長の座を退き、八郷隆弘常務執行役員(55歳)が昇任する「社長交代」を発表したのだ。

今年に入ってから、驚くような社長交代が相次いでいる。1月20日、三井物産が飯島彰己社長(64歳)に代わる社長に安永竜夫執行役員(54歳)が就任すると発表。ヒラ役員からの32人抜き人事が話題を集めた。

3月12日に発表された、TBSの社長交代人事も電撃的だった。4人いる常務のうち3人を退任させ、石原俊爾社長(69歳)に代わってヒラの取締役だった武田信二氏(62歳)が就任するというものだった。

社長にとって最後の仕事となるのが後任選びだ。ここで間違えると会社は終わる。もちろん、社長になれるのはたった一人。誰もが納得するような、円満な社長交代は難しい。そう思わざるをえないが、ホンダの伊東社長の場合はどうだったのか—。

今回の交代劇は、詳しくは後述するが、単純に言えば業績悪化を招いた伊東社長の、事実上の「引責辞任」。その失敗の芽は、いつ生まれていたのか。

伊東社長は'09年に就任。リーマン・ショック後の不況、'11年には東日本大震災と、就任時から、厳しい環境の中で経営を担った。ただ、ホンダが凋落したのは、それらの外的な原因ではなく、伊東社長の「人災」的な面も否定できない。

ある中堅幹部は、「思えば、あれが業績を悪化させる大きな要因となった」という、2年半前の会見についてこう語る。

「'12年9月の記者会見で、伊東社長は'16年度に全世界で600万台の販売を目指すと発表しました。うちは、それまでは数値目標を掲げてこなかったのに……。

その目標数値も身の丈に合わないものでした。数字を達成すべく無理な開発が始まり、品質対応が疎かになったんです」

当時、ホンダは過去10年間の年平均で10万台程度販売を伸ばしてきたが、伊東社長が目指す600万台を達成するにはむこう3年間で年平均約66万台の販売増が求められた。

伊東社長は活路を、新興国を中心とする海外での販売に見出し、現地に合ったコストの安い車の開発を求めるようになり、開発も現地に移管する方針を強めていった。

長期的には、その方向性は間違いとは言えない。しかし、伊東社長はホンダの体力を超えて早急に動き過ぎた感がある。

ホンダは開発部門を別会社化しており、子会社の本田技術研究所が担う。通称「技研」は、埼玉県和光市や栃木県芳賀町などに拠点を持っている。

ホンダが研究開発部門を分社しているのには訳があり、それは創業者の本田宗一郎氏が本社の業績に一喜一憂せずに、長期的な視点でモノづくりに励むようにと考えたからだとされる。

しかし、伊東社長は研究所をたびたび訪れては、エンジニアの前で「お前らの半分はいらない」と発言することもあった。

これには国内では開発者が余っているのに、海外では足りないという意味合いもあったが、「開発現場の士気は下がる一方だった」と、中堅エンジニアは語る。

「伊東社長はとにかく早く開発しろと口うるさい。質に誇りをもって開発をしてきたのに、『うちの車は牛丼なのか』と愚痴も言いたくなりますよ」

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