週刊現代
西郷サンは生きていた!?
魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」連載第120回
月岡芳年画 鹿児島暴徒出陣図---wikipediaより

たぶん上野公園の西郷サンの脇に立つ石碑をご覧になった読者は多いと思う。あれは、銅像の由来を説明するため19年前、有志の手で建立されたものだ。
碑文では西郷隆盛の波乱に満ちた生涯について簡潔な説明がなされている。私はそれを読んでハッとした。彼が明治六年政変に敗れて下野するくだりがこんなふうに描かれていたからである。

<(西郷は)明治六年六月いわゆる征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、(中略)内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。・・・・・・>

つまり、碑文によれば、西郷は武力による朝鮮侵略を唱えた征韓論者ではなかった。逆に、それに断固反対して平和的解決を図った政治家だということになる。

これはちがうのではないか。昔の教科書には、西郷が不平士族の不満をそらすため征韓論を唱えたと書かれていたはずだ。司馬遼太郎の小説『翔ぶが如く』(文春文庫)もそれに近いトーンで描かれている。近代史の通説では、碑文の記述は誤りだと言わねばならない。

西郷崇拝者がでっちあげたヨタ話だろうか。気になったので明治六年政変に関する最近の解説書をいくつか読んでみた。驚いたことに碑文の記述にはそれなりの根拠があった。正解か否かはともかく、いい加減な話ではない。明治六年政変の真相をめぐる学界の議論は分かれ、論争がつづいていた。

その議論が影響してのことだろう。高2の次男の教科書も「征韓論が高まる中、西郷隆盛を中心とする留守政府は不平士族にも配慮して、1873(明治6)年、西郷隆盛を朝鮮へ使節として派遣することを決定した」と、通説を維持しながらも微妙な含みを持たせる記述に変わっていた。

没後約140年たっても西郷の評価は定まっていない。ある学者は彼を不平士族の親玉の軍国主義者だと言い、別の学者は東アジアの友好を目指した平和主義者だと言う。両極の西郷像がいきなり目の前に現れて私は当惑した。

しかし考えてみれば、西郷はもともと謎の塊だ。「己を愛するは善からぬことの第一なり」「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ」とキリストのような言葉を発し、その通りの道を歩んだ。

内村鑑三の西郷論にはこんなエピソードが紹介されている。<実に彼は他人の平和を擾すことを非常に嫌つた。他人の家を訪ねても、進んで案内を乞はず、玄関に立つたまま折よく誰かが出て来て見附けてくれるまで、其処に待つてゐることがよくあつた>。

司馬遼太郎も「人間は欲望で生体が成り立っているわけですから(中略)無私っていうのはもうありえないことですよね。ありえないことを、西郷は自分のなかでやってみた・・・・・・」と語っている。

それに彼は維新後、早々と郷里に隠退し、明治4(1981)年まで新政府に出仕していない。これは革命の指導者としてはありえない、謎の行動だ。そんな西郷を民衆は慕った。明治10(1877)年に来日した米国の科学者エドワード・モースは、西南戦争直後の東京の様子をこう描いている。